市川大門村(読み)いちかわだいもんむら

日本歴史地名大系 「市川大門村」の解説

市川大門村
いちかわだいもんむら

[現在地名]市川大門町 寄洲よろす大北おおきた中北なかきた出口でぐち古倉ふるくら春日町かすがちよう七軒町しちけんちよう落合おちあい

現市川大門町の北東部に位置し、あし川が笛吹川に合流する地点の左岸沖積地に立地。単に大門村・市川村ともいう。北東は笛吹川を隔てて今福いまふく新田村(現田富町)、北西は笛吹川と釜無川を隔てて東南湖ひがしなんご(現甲西町)、東は芦川を隔てて上野うえの(現三珠町)、南から西は山家やまが村・印沢おしてざわ村・高田たかた村に接する。古代の巨麻こま郡市川郷(和名抄)の遺称地。古代の市川郷域に成立した市河庄の南部域を占める。この地域は戦国期に市川(郷)とよばれ、江戸時代の当村は市川五ヵ村の一。

市川大門村はもと平塩岡ひらしおのおかにあった平塩へいえん寺を中核にして発達、戦国期には河内かわうち(駿州往還)伝馬宿で、岩間いわま宿(現六郷町)から中継し、甲府の入口にあたる重要な宿として発展したとみられる。櫛形くしがた伝嗣でんし院蔵の大般若経巻三〇一の奥書に文亀元年(一五〇一)一一月二日「甲州八代郡市河庄於野中書之」とみえ、地内野中のなかで書写されていた。天正五年(一五七七)武田勝頼岩間宿の訴願により、市川(宿)までの伝馬はだれの依頼であっても応じ、市川宿より遠方の場合は応じる必要はないとした(七月一六日「武田家印判状」折井忠義氏旧蔵文書)。同一〇年三月一〇日、穴山梅雪の案内で徳川家康が「市川」に着陣している(家忠日記)。同二〇年二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)では、当地を「市川大門宿」と記している。市川大門宿には問屋が置かれ、天正一〇年一二月九日の青沼与兵衛尉宛徳川家印判状写(甲斐国志)、同年一一月八日の徳川家印判状写(譜牒余録)には「市川町」とみえ、後者によると市川町の籾子類役一八貫ほかが河西喜兵衛(充良)に本領として安堵されている。翌一一年九月一七日に網蔵氏に「市川郷戸手作前十貫文」が安堵されており(甲斐国志)、町分(宿場)と郷分は分離していた。

天正期の初め頃平塩岡の北西方の笛吹川および芦川の氾濫原の「市川之内草間并おこし間共ニ、合拾三貫文」の地が、野呂瀬・井上・内石・秋山・堀内など諸氏によって開発され(天正四年と推定される丙子四月一〇日「武田信豊証文写」甲州古文書)、その後当地の特産であった和紙(肌吉紙)の紙漉を行ううえで、水利の便がよい新開地に移住していったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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