岡谷村
おかやむら
[現在地名]岡谷市山下町・郷田・幸町・神明町・本町・中央町・御倉町・成田町・天竜町・山手町・湖畔・田中町・塚間町・上浜・堀ノ内・下浜
北西部に塩嶺山地を負い、南東部は諏訪湖に面し、中央部を伊那道が貫通している。
「延喜式」に「信濃国 岡屋牧・平井手牧」とあって、奈良時代末から平安時代初期には岡屋牧は官牧に指定されていた。現在、岡谷公園に馬の守護神といわれる小部沢神社がある。また「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)九月の条に「下宮分、竜市一郷也、而筆者誤書加岡仁谷郷」とあり、源頼朝が諏訪下社に竜市・岡仁谷の二郷を寄進したことが記されている。
岡谷村
おかのやむら
[現在地名]沼田市岡谷町
下発知村の南にあり、南を薄根川、東を同川支流発知川に区切られる。西は戸神村・町田村、発知川を挟み東は奈良村、薄根川の対岸沼田台地上に耕地がある。関越自動車道工事により旧石器や縄文・弥生・古墳・平安と各期にわたる出土物・住居跡が発掘され古墳も点在し、「和名抄」にみえる利根郡渭田郷の一部に比定する説もある。天正一八年(一五九〇)一二月二四日の真田信幸宛行状(写、「高野莠叟雑記」所収)で塚本肥前守に与えられた地に「岡谷之内拾貫文」がある。平家沼田氏系図(法城院文書)によれば、沼田氏四代下沼田景家の次男景仲が当地に拠り、岡谷平内左衛門を名乗ったといい、以後岡谷氏は沼田氏一族として「加沢記」「沼田記」などに散見される。
岡谷村
おかだにむら
西郡村の枝村で地頭片山村の東に位置。山陽道が通る。寛永備中国絵図には「山手ノ内岡谷」とあり、正保郷帳では西郡村の枝村として村名がみえる。「備陽記」では反別四五町六反余、家数九九・人数六三八、池一三、茶屋があった。南東方には山南へ越える水分れという地があったとし、現在は水別と記している。文化年間の「岡山藩領手鑑」では高四二〇石余・又高二五八石余・直高三三九石余で蔵入のみ。
岡谷村
おかだにむら
[現在地名]浅井町岡谷
鍛冶屋村の南東に位置。天正一七年(一五八九)一月一六日「岡谷ノ孫七」が草野庄内の田地を鍛冶屋村の兵衛二郎に売却している(草野文書)。寛永石高帳によれば高一四五石。領主の変遷は醍醐村に同じ。飯山村などとともに当地にある堤谷の立会村組に属した。堤谷の名は「輿地志略」によれば平治の乱のとき落延びる源頼朝を当地の堤庄司が助け、のちに当地を与えられたことにちなむという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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