長野県中央部、諏訪湖(すわこ)北西岸にある工業都市。1936年(昭和11)平野村から一躍市制施行。1955年(昭和30)湊(みなと)、川岸の2村、1957年長地(おさち)村を編入。市街は前面を諏訪湖に、背面の北側は山地で、狭い横河(よっか)川と天竜(てんりゅう)川の扇状地上に展開している。『延喜式(えんぎしき)』の官牧岡屋牧(おかのやのまき)にちなんで市名がつけられた。従来主要な交通機関は中央本線だけであったが、市街の南西端で中央自動車道から分かれて、松本市と長野市を結ぶ長野自動車道が通じ、中央本線の塩尻(しおじり)へ直接通じる新線も1983年完成した。
市街は明治初年から製糸工業の発達に伴い形成されてきた。ここは耕地が狭く、扇状地で土壌にも恵まれていないなどのため、近世後期から綿打(わたうち)や座繰(ざぐり)などが農家の副業としておこり、これが1875年(明治8)の洋式器械製糸工場導入の契機をなした。以来、1930年(昭和5)の経済恐慌に至るまで飛騨(ひだ)、越後(えちご)、甲斐(かい)などの諸地域からも広く女子工員を集め、世界における生糸の一大産地とさえされるほどの発展を遂げ、1930年には平野村(現、岡谷市街)の人口は5万3000人に達し、日本一の大村となった。しかし、第二次世界大戦中は製糸業はまったく沈滞し、この建物の利用を目的に京浜方面から光学兵器や、時計などの工場が疎開し、これが今日における精密機械工業発展の動機になった。市街には精密機械工業のほか、製糸工場から転換したみそ工場や、鉄工場なども多く、また製糸業も往年のおもかげはないが県下第一である。このため、市内には市立岡谷蚕糸博物館をはじめ蚕霊塔など蚕糸に関係深いものがある。また、国道20号の塩尻峠(1012メートル)は眼下に諏訪湖の全容を眺めることができ、近くは野鳥も多く、中山道(なかせんどう)の峠跡も残され、観光の名所になっている。このほか、ツツジの名所鶴峰(つるみね)公園もある。なお、天竜川は岡谷市の釜口(かまぐち)水門から始まる。面積85.10平方キロメートル(一部境界未定)、人口4万7790(2020)。
[小林寛義]
『三井理助著『岡谷の100年』(1968・三井書店)』▽『『岡谷市史』上中下(1973~1982・岡谷市)』
長野県の中央にある市。1936年平野村が市制,改称。人口5万2841(2010)。諏訪湖北西岸,天竜川の出口にある工業都市で,明治初めまでは農村であったが,1875年塩尻峠のふもとに西洋式器械製糸工場が設立されてから製糸業が発展した。1930年岡谷の前身の平野村は人口5万3000の日本一大きい村となり,各地から集まった製糸工女は人口の約50%に達した。また片倉製糸をはじめとする大手の製糸企業は,日本各地はもとより,朝鮮,中国まで進出していった。昭和恐慌後,製糸業を中心とする経済は大きな打撃を受け,みそ醸造やメリヤスなどの工業に転換した工場もでた。第2次世界大戦後製糸業も復興したが昔日の面影はなく,戦争中疎開した京浜地方の工場が定着して,現在の岡谷はカメラ,時計などの精密機械工業,電機などの近代工業都市になっている。中央本線が通じ,中央自動車道と長野自動車道の分岐点にあたる。岡谷市立蚕糸博物館には,1872年官営富岡製糸場で使用されたフランス製の製糸機械をはじめ,製糸関係の資料を豊富に所蔵しており,製糸史研究に欠かせないものになっている。
執筆者:市川 健夫
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