岩出山城下(読み)いわでやまじようか

日本歴史地名大系 「岩出山城下」の解説

岩出山城下
いわでやまじようか

天正一九年(一五九一)藩祖政宗が米沢から岩出山城へ移封するにあたって、同城東方の江合えあい右岸平地に町割した城下で、慶長八年(一六〇三)の仙台移転まで伊達氏領の治府、その後も玉造郡の中心地的機能を果した。岩出山城は中世、奥州探題大崎氏の家臣氏家氏が拠った岩手沢いわてさわ城の城地に築城された。

〔岩手沢城〕

江合川の右岸、川沿いに北西から南東に延びる丘陵突端部にあり、磐手沢城とも記し、また臥牛がぎゆう城とも称した。「岩出山町史」などによれば応永年間(一三九四―一四二八)氏家詮継が西方南沢みなみざわすぎさわ(菅ノ沢)より移り当地に築城したという。「伊達正統世次考」天文五年(一五三六)条によれば、大崎氏内乱渦中の同四年氏家庶子太郎左衛門某は反乱を起こした新田頼遠にくみする宗弟直継を自殺させ「磐手沢の本城」を奪ったという。しかし、同書天文五年七月一三日条などでは同年には大崎義直の要請を受けて伊達家一四代稙宗が大崎領に出陣、七月一三日義直と稙宗は磐手沢へ向かい周辺の二〇余郷に火を放ち、氏家家中も磐手沢城に集結してこれに応戦、九月一一日和議が成立し頼遠は最上領に落延び、磐手沢城には氏家直継が再び入城したとする。天正一四年氏家吉継と新田刑部が対立、吉継は政宗に援助を求め(貞山公治家記録)、同一六年伊達軍は加美かみ中新田なかにいだ(現中新田町)攻撃のため、配下武将に岩手沢参陣を求め氏家吉継も岩手沢城から出陣、しかし両軍は合流に失敗、伊達方の敗北に終わった(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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