岩出山本郷(読み)いわでやまほんごう

日本歴史地名大系 「岩出山本郷」の解説

岩出山本郷
いわでやまほんごう

[現在地名]岩出山町 上川原町かみかわらまち大学町だいがくまち細峯ほそみね城山しろやまなど

下野目しものめ村の北西、南東流する江合えあい(荒雄川)右岸に位置し、川沿いの平地と西方の丘陵地からなる。現在、行政上大字はなく、大学町など二七の字名が使われている。対岸北東は上野目村、南は南沢みなみざわ村。古くはいわ(磐)手沢てさわと称したが、天正一九年(一五九一)藩祖政宗は米沢からの当地移封に際し、居城岩出山城と改め、岩出山の名が定着した。これと同時に城の東方平地部には城下の町割がなされ、ほぼ現在の岩出山の中心街が形づくられる。古くから交通の要衝で、近世、館下の町場には中山なかやま越出羽道の岩出山宿が置かれ、六斎市が開かれるなど賑いをみせ岩出山町とも称された。岩手沢の由来はアイヌ語のイワタイ(岩の枝脈)から生じたとする説、宝亀一一年(七八〇)伊治公呰麻呂の反乱の際、政府軍が伊治いじ(現栗原郡築館町)攻撃のために通った官道五道にみえる「楯座、石沢」(「続日本紀」同年一二月一〇日条)の転訛したもの(大日本地名辞書)など諸説がある。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる玉造駅を当地に比定する説もある。また松尾芭蕉は岩出山宿に一泊した折、「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」(おくのほそ道)と記し、「いはで」「いはでのせき」「いはでのをか」「いはでやま」「みちのくのいはで」などと詠まれる歌名所を当地に比定している。

「余目記録」に、観応の擾乱の影響をうけ、対立した留守家明と大崎氏家臣氏家三河守の合戦の記述で「氏家三河守其頃当国の執事もたれ候間、岩手さハより手勢三百余騎ニテはせつき、日之内に七度陣をやふり候(中略)てきも味方も可取やうなし、其時岩手沢吉田の道場時衆飛入、重代太刀取られ候」とあり、氏家氏の本拠地として岩手沢がみえ、時宗道場も近辺にあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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