日本の城がわかる事典 「岩櫃城」の解説 いわびつじょう【岩櫃城】 群馬県吾妻郡東吾妻町にあった山城(やまじろ)。断崖絶壁の岩櫃山(標高802m)の東の山腹を城域とする。鎌倉時代に一帯を治めた吾妻太郎助亮が築城したとする伝承があるが、築城年および築城主はわかっていない。室町時代中期には、南朝方の攻撃で戦死した吾妻行盛(鎌倉時代の吾妻氏とは異なるため、後期吾妻氏と呼ばれる)の遺児千王丸が斎藤梢基に庇護され、のちに千王丸は山内上杉氏の偏諱(へんき)を受けて斎藤憲行を名乗った。この斎藤憲行に始まる斎藤氏6代の時代に岩櫃城が築かれたとする説が有力である。ただし、『加沢記』には1405年(応永12)に、越前国(福井県)大野郡の斎藤基国の子憲行がこの地に入部して岩櫃城を築いたと記述されている。戦国時代、城主の斎藤憲広は越後の上杉氏に属して勢力を拡大したが、1561年(永禄4)から武田信玄傘下の国人の真田幸隆の攻撃や工作を受けて、1563年(永禄6)に家臣の内応により落城、憲広は越後に逃走。城は1565年(永禄8)に落城、真田氏が岩櫃城主となった。その後、沼田城が真田氏に攻略されると、沼田城の支城として使われた。武田氏が滅亡する直前、真田昌幸は武田勝頼に岩櫃城で再起を果たすよう勧めたが受け入れられなかったとされる。その後、真田氏は豊臣秀吉の大名となり、江戸幕府が開かれた後も藩として存続した。1615年(元和1)、岩櫃城は一国一城令により廃城・破却された。JR吾妻線の郷原駅または群馬原町駅から徒歩約30分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報