川上源一(読み)カワカミ ゲンイチ

20世紀日本人名事典 「川上源一」の解説

川上 源一
カワカミ ゲンイチ

昭和・平成期の経営者 元・日本楽器製造社長;元・ヤマハ発動機社長;ヤマハ音楽振興会名誉会長。



生年
明治45(1912)年1月30日

没年
平成14(2002)年5月25日

出生地
静岡県磐田郡豊西村(現・浜松市)

出身地
兵庫県

学歴〔年〕
高千穂高商〔昭和9年〕卒

主な受賞名〔年〕
レオポルド勲章コマンドール章(ベルギー)〔昭和62年〕,人民友交功労賞(東ドイツ)〔昭和62年〕,モンゴル友好章〔平成3年〕,モンゴル文化最高功労章〔平成3年〕

経歴
大日本人造肥料を経て、昭和12年父・嘉市が社長を務める日本楽器(現・ヤマハ)に入社以後、天竜工場長などを経て、25年社長に就任。34年日本で初めて電子オルガンを開発。“エレクトーン”の商品名は、電子オルガンの代名詞にもなった。30年からオートバイ事業に進出し、ヤマハ発動機社長を兼務。他にも電子部品、スポーツ用品、レジャー施設の開発など積極的な多角化と海外進出で世界のヤマハグループを築いた。52年会長に退いたが、55年再び社長に就任。58年長男の浩に後継を譲り、平成4年第一線を退いた。また、音楽事業としては昭和41年ヤマハ音楽振興会を設立、平成7年名誉会長。国内外に“ヤマハ音楽教室”を開設し、音楽の普及にも尽力した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川上源一」の意味・わかりやすい解説

川上源一
かわかみげんいち

[生]1912.1.30. 静岡,浜松
[没]2002.5.25. 静岡,浜松
実業家。1934年高千穂高等商業学校を卒業後,1937年に父の嘉市が社長を務める日本楽器製造(のちヤマハ改称)入社。1950年社長就任。社長主導の経営を展開して同社を世界的な楽器メーカーに育てた。幼児の音楽教育に力を入れ,ヤマハ音楽教室を全国各地に開設し,1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会を設立。またオートバイ事業に進出してヤマハ発動機を設立,1955年から 19年間社長を兼務した。スポーツ用品や,リゾート事業も手がけた。1977年にヤマハ社長を退き会長に就任したが,3年後,経営方針をめぐって対立した後継社長を追放して社長に復帰。1983年に長男の浩を社長に据え,厳しい世襲批判を浴びた。熱心に推進した音楽教育に「世界最先端の快挙」と絶賛の声がある反面,「演奏技術にかたより,人間教育がなおざりにされていた」とも指摘され,評価は分かれた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川上源一」の解説

川上源一 かわかみ-げんいち

1912-2002 昭和後期-平成時代の経営者。
明治45年1月30日生まれ。昭和12年父川上嘉市が社長をつとめる日本楽器製造(現ヤマハ)に入社。25年社長,52年会長,55年社長に復帰,58年長男浩を社長にしてふたたび会長。ヤマハ音楽教室を各地に展開。またオートバイ,エレクトーン,オーディオ,レジャーランドなどの新規事業をひらいた。平成14年5月25日死去。90歳。静岡県出身。高千穂高商卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「川上源一」の解説

川上 源一 (かわかみ げんいち)

生年月日:1912年1月30日
昭和時代;平成時代の実業家。日本楽器製造社長;ヤマハ発動機社長;ヤマハ音楽振興会名誉会長
2002年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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