川津村(読み)かわつむら

日本歴史地名大系 「川津村」の解説

川津村
かわつむら

[現在地名]坂出市川津町

現坂出市の南西端、丸亀平野の東端に位置し、現市域唯一の鵜足うた郡の村。村の東半は山山塊の支峰郷師ごじ(二九五・二メートル)じよう(二八三・三メートル)が占め、西半に平地が広がり、大束だいそく川が流れる。南端の現綾歌あやうた飯山はんざん町との境には飯野いいの(讃岐富士)がそびえる。北は阿野あや郡北の福江ふくえ村、西は東分ひがしぶん(現丸亀市)など。郷師山北麓のヒコシ峠などから石器が採取され、向山むかいやま折居おりいからは組合せ箱式石棺が発掘された。また坂出南インターチェンジ建設予定地の下川津地区からは縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡が発掘され、建物跡および木製農器具が多数検出されている。古代の鵜足郡川津郷(和名抄)の遺称地。中世にも公領河津郷があり、郷内に奈良春日社領河津庄が成立。

寛永国絵図には河津郷とあり、高二千二三六石余(河津を冠した西俣・東山・井手上の各村の高を含む)


川津村
かわづむら

[現在地名]勝浦市川津

勝浦村の東に位置し、東から南にかけては海に臨む。河津とも記した。天保七年(一八三六)の勝浦町外五拾村組合絵図(米本家蔵)いしヶ浦が記され、ほかに現在うら権名浦ごんなうら万名浦まんなうらの字名が残る。天正一九年(一五九一)と推定される二月三〇日の植村泰忠定書(覚翁寺文書)に「川津」とみえ、勝浦(根小屋)の市日には売買を禁じられており、当時旗本植村領で海付の郷村として交易が行われていたことが知られる(なおこの定書の年を慶長八年とする説もある)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八二石。正保国絵図では高一八二石。寛永一六年(一六三九)旗本板橋領となったと思われ(寛政重修諸家譜)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では同領で、家数一四五。


川津村
かわづむら

[現在地名]飯塚市川津

建花寺けんげいじ川が遠賀おんが川に合流する付近に位置し、南東は建花寺川を境に片島かたしま村。南北朝期と推定される年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(相良家文書/南北朝遺文(九州編)四)に斎藤十郎分として「河津村田地弐拾五町河津三郎太郎跡」がみえ、当地の在地領主河津氏の存在も確認される。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文案(「正任記」同月一八日条)によれば、大内氏家臣の吉賀貞綱・勝屋重為はそれぞれ「穂波郡河津壱町地恒岡式部丞跡」を宛行われている。


川津村
かわつむら

[現在地名]十津川村大字川津

十津川本流と神納かんの川との合流地に立地。十津川郷のうち。元禄郷帳に「川村」と訓ずる。村高は一二・六三五石、幕府領。同帳には「川津村之枝郷」として、津越野つごいの村五・五三七石、矢野原やのはら村六・五〇八石、野広瀬のびろせ村六・九九六石、丸瀬まるぜ村四・九八九石の四村が記され、「大和志」には「河津属邑五」とある。


川津村
かわづむら

[現在地名]魚津市いで

かど川左岸にあり、対岸は宮津みやづ村、北は慶野けいの村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に河津村とみえ、草高七一石・免四ツ一歩(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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