巨福呂坂(読み)コブクロザカ

デジタル大辞泉 「巨福呂坂」の意味・読み・例文・類語

こぶくろ‐ざか【巨福呂坂】

神奈川県鎌倉雪ノ下から山ノ内へ抜ける坂道鎌倉七口の一。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「巨福呂坂」の解説

巨福呂坂
こぶくろざか

小袋坂とも書く。現在の坂は明治一九年(一八八六)五月に開かれた新道。旧道鶴岡八幡宮の西からやまうち建長寺門前に通じていた、いわゆる鎌倉七口(切通)の一つ。国史跡道筋は鎌倉市道一〇五号で、一部切通しになっているが、峠付近は個人の邸内に含まれているため通行は不可能である。

「吾妻鏡」によると、仁治元年(一二四〇)一〇月一〇日・一九日条に執権北条泰時は安東藤内左衛門尉光成を奉行として険難な山ノ内道を造営し、往来の煩いをなくしたとあるから、これが巨福呂坂の造営・整備と認められ、建長二年(一二五〇)六月三日条には執権北条時頼が六浦むつら道といっしょに修造を命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「巨福呂坂」の解説

こぶくろざか【巨福呂坂】


神奈川県鎌倉市雪ノ下にある切り通しで、鎌倉七口(ななくち)の一つ。「小袋坂」ともいい、鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山ノ内(現在のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道で、鶴岡八幡宮の西側から北西に登ると、巨福呂坂洞門西側にあたる建長寺付近に出る。鎌倉時代の小袋坂については正確なルートはわかっていないが、1240年(仁治1)、北条泰時が自身の所領地である山ノ内への便を目的に開いたもので、鎌倉と武蔵を結ぶ要路で、新田義貞の鎌倉攻めでは大激戦が展開した場所でもあり、1969年(昭和44)に国の史跡に指定された。江戸・明治期の道は、現在の巨福呂坂洞門の真上を通っていたことは確かで、そこから蛇行しながら建長寺前へと降りていたが次第にすたれ、現在では八幡宮側から200mほどで行き止まりになっている。JR横須賀線ほか鎌倉駅から江ノ電バス「八幡宮裏」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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