日本歴史地名大系 「布瀬村」の解説
布瀬村
ふぜむら
〔中世〕
嘉禄三年(一二二七)一二月、相馬能胤(義胤)は相馬御厨内「ふせ」を手賀、
布瀬村
ふせむら
寛永備中国絵図に布施村とみえ、高一八一石余、松山藩領。正保郷帳には多治部村の枝村の一として布瀬村がみえる。元禄五年(一六九二)の免目録(大佐町史)によると高六二三石余、うち高一一九石余に対する免は七ツ、三八二石余に対する免は六ツ六分、ほかに新田分が二石七斗あり、この免は四ツ。
布瀬村
ぬのせむら
布瀬村
ふせむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報