布施村(読み)ふせむら

日本歴史地名大系 「布施村」の解説

布施村
ふせむら

[現在地名]柏市布施・布施新町ふせしんまち一―四丁目、我孫子市布施

花野井はなのい村の東に位置し、近世には相馬そうま郡に属した。水戸道を根戸ねど村から分れ、常陸国谷田部やたべ(現茨城県つくば市)・下妻・筑波方面に向かう同道の脇往還が通り、北は流作場を挟んで利根川が東流する。地内には同川の河岸場(布施河岸)が置かれ、対岸戸頭とがしら(現茨城県取手市)との間を七里しちりヶ渡が結んだ。古くから陸川交通の要所で、近世には地内の布施弁天(東海寺)への参詣者でも賑わった。古代の相馬郡布施郷の遺称地。慶安(一六四八―五二)頃の成立とされる高城胤忠旧知行高付帳には葛飾かつしか風早かざはや小金こがね町として「ふせ村」とみえ、高四五〇石。江戸時代初頭は旗本内藤氏、のち旗本天野氏の所領であったといい(「布施弁天来歴書抜」後藤家文書など)、元禄一一年(一六九八)本多正永領となる(本多四公日記)。以後の変遷は船戸ふなと村に同じ。同一三年頃の下総国各村級分では高四五一石余。同一一年の村明細帳(後藤家文書)によると天正二〇年(一五九二)に検地が行われたという。元禄一一年には反別が田三四町九反余・畑屋敷三〇町八反余、永開田畑二七町二反余・新開田畑九町五反余。林五ヵ所(松二千六〇本・椚一千八三六本)、秣場五ヵ所があり、二ヵ所は当村持、残り三ヵ所のうち右島と柳島は当村および柴崎しばさき青山あおやま(現我孫子市)米野井こめのい・戸頭(現取手市)の五ヵ村の入会地、おお島は当村および柴崎・青山、野々井ののいいな(現取手市)の五ヵ村入会地であった。家数一五一・人数七七九、馬一五三。利根川沿いの農民は副業あるいは正業として川猟を行っていた。元禄七年川猟が禁止されたのに対して、当村農民は翌年川役金四両を上納することで再開を願出ている(「川猟差止請証文」同文書)


布施村
ふせむら

[現在地名]新治村布施

師田もろだ村の西北、赤谷あかや川に沿い三国街道が通る。北は新巻あらまき村、南はみなみ山とよばれる山地、西は須川すかわ諸村。三国街道の宿場町で、郷村帳類には村とあるが、江戸後期までの地方文書には布施町とするものが多い。現在通称として残る布施宿ふせじゆくは宿場時代の遺称。前の宿は新巻村今宿いまじゆく、次の宿は須川宿。

天正八年(一五八〇)五月六日の森下又左衛門宛真田昌幸定書(本多夏彦氏所蔵文書)に「壱貫文 布施」とみえる。当村は新巻村からの開発により成立した新田で、もとは新巻村に含まれたが文禄年中(一五九二―九六)に分村(天保九年「問屋役出入済口証文」原沢文書)。その後沼田藩真田氏の藩政拡充とともに宿場として整備されていった。慶長一三年(一六〇八)の真田信幸朱印状(森下文書)に「一諸役三年免許之事 一三年已前欠落之百姓新田へ於罷帰負物等御赫免之事 一切起之儀何者之地之内成共当おこし次第ニ可申付事」とみえ、当村が新たに町立てされたことが知られる。また元和三年(一六一七)の真田信吉朱印状(同文書)には「一町家数出来候ハヽとい屋役可出之事」とあり、町立ては伝馬制度の整備を目的としたものであった。


布施村
ふせむら

[現在地名]八日市市布施町

蛇溝へびみぞ村の西、布施山山麓にあり、北は東古保志塚ひがしこぼしづか村。「梁塵秘抄」に「蒲生野布施の池」とみえる。至徳元年(一三八四)一一月二六日の今堀郷神畠坪付には作人として「布施」の左衛門三郎殿らの名がみえる。当地を本拠地とする土豪布施氏から、布施淡路守公雄など六角氏の有力家臣が出ている。布施氏のなかには今堀いまぼり内に田畠をもつ者も多く、たとえば応永二七年(一四二〇)一一月二〇日、けいちんが「布施はゝ」より譲り受けた相伝の私領、得珍とくちん保内木戸口伊勢路北にある畠一反を売渡しているなど(けいちん畠売券)、布施氏一族による今堀郷の田畠の寄進・譲与・売買を示す文書が残されている。ただし布施氏は延暦寺勢力と惣結合の強さに阻まれて今堀郷で領主的経営を行えなかったとされる。嘉吉二年(一四四二)六月、同年秋に予定される検注を前に、布施氏一族とみられる一二名が延暦寺に対し検注に反対しない旨を誓っている(禅檀庵等起請文案断簡)


布施村
ふせむら

[現在地名]布施村布施

現布施村の北東部に位置し、きた谷・中谷・南谷が合して春日かすが川となり、入江に注ぐ。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一五石余・一町三反余、畑二三石余・一二町余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)二〇匁・漁請役三三匁八分余、山手塩八〇俵役五六匁(近年は塩焼をしていないが上納)・柄油六升役一匁二分・核苧六〇〇目役一匁六分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、漆二合役は米一斗七升余で代納。家数五八(百姓二二・間脇三六)のうち御役目屋敷二〇、男一七二・女一五八、神主・山伏各一、牛四三・馬五〇、真言宗安楽あんらく寺、春日明神がある。山林は長さ一里一四町・幅一里九町で、良材が多いので材木を伐り出し商売にしようと寛文九年(一六六九)江戸へ書上げたという。


布施村
ふせむら

[現在地名]瑞穂町布施

八色石やいろいし村の東、唐渓からたに(六五八・一メートル)高野たかの山・火下ひげ山などに囲まれた山間の村。角谷つのだに川と同川支流長源寺ちようげんじ川が流れ下る。奥谷おくだに・布施・はた水口みぐちの四集落がある。戦国時代は山南さんなんに含まれていた。永正九年(一五一二)六月一日の小笠原長隆判物(庵原家文書)によると、「山南比敷之内あさり名、同ふせの内かち屋名」などが川本かわもと(現川本町)に本拠を置く長隆の被官井原民部左衛門に本領として与えられている。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高二五九石余、年貢高は田方一三七石余・畑方一八石余。


布施村
ふせむら

[現在地名]田富町布施

甲府盆地の中央部、釜無川左岸に位置し、東は上三条かみさんじよう村・下三条村(現玉穂町)、南は西花輪にしはなわ村、西は臼井阿原うすいあわら村、北は河西かさい(現昭和町)。村内を駿州往還が走り、当村はその一宿。村の西に信玄堤がある。永禄四年(一五六一)の番帳の三七番、慶長一三年(一六〇八)の番帳の四一番にみえる布施の禰宣両人は、当地の八幡宮(現穂見八幡神社)および上三条の御崎みさき明神の神官をさすという。慶長六年の検地帳(県立図書館蔵)は六冊のうち三冊が残り、三冊の合計は上田二町六反余・中田三町九反余・下田六町八反余・下々田一町六反余、上畑一町余・中畑三町五反余・下畑三町五反余・下々畑一町九反余、ほかに永荒下田七町七反余・永荒下畑五町一反余とあり、永荒が多い。


布施村
ふせむら

[現在地名]海士町御波みなみ 布施

太井だい村の南に位置し、東部は海に面する。天正一一年(一五八三)頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(村上家文書)に布施とあり、串子一〇連の負担となっている。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田五〇石余・四町二反余、畑一七九石余・一一一町六反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)二二匁・漁請役二二匁六分・大鯛四枚役八分・鰤四本役四匁八分・切鮑四升役二匁・海苔五升役五分・柄油七升役一匁四分・核苧六六〇目役一匁七分・牛皮五枚役丁銀一〇匁、串鮑五串役は米一斗一升余、串海鼠五串役は米三升余で代納。


布施村
ふせむら

面積:一八・五五平方キロ

島後どうごの北東部に位置し、海に面する北東側以外は西郷さいごう町と境を接する。町境に葛尾つづらお(五九七・七メートル)わしヶ峰(五六〇メートル)大満寺だいまんじ(六〇七・七メートル)などがそびえ、これらを水源とする谷川が合流して春日かすが川となり、布施漁港で海に注ぐ。この布施地区と北西の飯美いいび地区は主要地方道西郷―浄土じようどうら線により、同じく南東の卯敷うずき地区とは同西郷―布施線により結ばれている。


布施村
ふせむら

[現在地名]氷見市布施

北は川尻かわしり村、北東は海津かいづ村、東は耳浦みみうら村。集落は十三じゆうさん谷の入口の平野にある布勢円ふせのまる山とよばれる単立丘陵の裾野にある。仏生寺ぶつしようじ川が集落の西側を流れ、布施川ともよばれる。元和五年(一六一九)の売買勝手申渡書(「産物方御用留」加越能文庫)によれば、ふせ村は氷見南新みなみしん町へ茣蓙・縁取などを売るように命ぜられている。正保郷帳の高九八七石余、田方六四町一反余・畑方一町七反、新田高五三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高九九〇石・免六ツ三歩(三箇国高物成帳)


布施村
ふせむら

[現在地名]長浜市布勢町ふせちよう

加田今かだいま村の南東、よこ山西麓にある。元亀三年(一五七二)三月一七日の浅井長政宛行状(島記録)に「ヲシノベ布施也」とある。同年一一月二〇日の脇坂秀勝書状(同書)に「布施奥之坊跡」とある。寛永石高帳に高八七六石余とあり、この高は小一条こいちじよう村を含んでいる。以後小一条村と一緒にしたり分離したりして推移し、元禄郷帳では小一条村と別記され、高五八二石余。天保郷帳では再び小一条村を含んで高九〇〇石余。彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によれば定免で五ツ二分。


布施村
ふせむら

[現在地名]高月町布施

磯野いその村の北、余呉よご川左岸平地に立地。近年まで条里遺構がみられ、いちつぼの地名が残る。慶長七年(一六〇二)の検地では田二四町七反余・高三八二石余、畑二町一反余・高一八石余、荒六反余・高五石余(伊香郡志)。寛永石高帳では彦根藩領二〇四石余・京都所司代板倉重宗領二〇四石余。彦根藩領は幕末に至る。板倉領は元禄郷帳では甲斐甲府藩領。天明村高帳では幕府領。文政石高帳では山城淀藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳では彦根藩領の人数五七。


布施村
ふせむら

[現在地名]我孫子市布施・布施下ふせした、柏市布施・布施新町ふせしんまち一―四丁目

久寺家くじけ村の西、利根川の右岸に位置する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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