日本歴史地名大系 「帖佐郷」の解説
帖佐郷
ちようさごう
〔中世〕
暦応二年(一三三九)八月日の正八幡宮講衆・殿上等訴状写(隼人桑幡文書)によると、保安年間(一一二〇―二四)に摂関家の藤原忠実が正八幡宮(現鹿児島神宮)に「帖佐郷」を寄進している。大隅国建久図田帳には帖佐郡とみえ、総田数は二七一町大で、正八幡宮領・経講浮免・国方所当弁田からなる。正八幡宮領の本家は山城
帖佐郷の具体的な在地の様相が判明するのは、建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)である。同配符写は文永の役後に幕府の命によって筑前博多湾岸に石築地(石塁)を築く際のもので、各自の所領面積とそれに応じた石築地の負担の長さを記したものである。ただしこの配符写にみえるのは
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報