日本歴史地名大系 「常葉町」の解説 常葉町ときわまち 福島県:田村郡常葉町面積:八四・四一平方キロ田村郡の東部、阿武隈高地の最高部に位置。中心部の標高が四三〇メートルの丘陵地帯。東は大滝根(おおたきね)山・尖盛(とがりもり)・檜(ひ)山・鳴子(なるこ)山・鎌倉(かまくら)岳などの分水嶺を結ぶ稜線を境にして都路(みやこじ)村・双葉郡川内(かわうち)村、南は滝根(たきね)町・大越(おおごえ)町、北から西は船引(ふねひき)町に接する。大滝根山に源を発する大滝根川が檜山川を合せて町域を西流し、郡山と浜通りを結ぶ国道二八八号(都路街道)が町の中心部を横断する。町名の由来は明らかでない。興国元年(一三四〇)正月二二日の北畠親房御教書写(松平結城文書)に 「常葉城」とみえ、応永一一年(一四〇四)と推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)の「常葉 沙弥妙重」など、古くは常葉と表したが、「伊達治家記録」天正一六年(一五八八)閏五月二八日条の「常磐ヨリ大越ニ」、田村氏宿老外連名(片倉文書)の「常盤伊賀守常盤城主」、同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(同文書)の「常葉分」などと、しだいに混同され、元和老人物語(常葉町史)の元和八年(一六二二)の「常葉町肝煎」以降、ほぼ常葉と記されるようになった。早稲川(わせがわ)には縄文時代早期・前期の土器片、後期・晩期の土偶・石鏃を出土する東片草(ひがしかたくさ)遺跡や宇道(うとう)遺跡がある。延暦年間(七八二―八〇六)の征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐にかかわる伝説や大多気丸の鬼穴伝説などが伝わる。文献上の初出は、前掲北畠親房御教書写にみえる「常葉城輩者属海道」で、当時の常葉城主は海道勢力(標葉氏または相馬氏)下にあって南朝方に参加していた。 常葉町ときわちよう 京都市:下京区皆山学区常葉町下京区烏丸通七条上ル二丁目南北に通る烏丸(からすま)通の西側、東本願寺境内の大部分を占める。平安京の条坊では、左京七条三坊の中央部に位置して、一保七町の東半分、二保五町北東隅・六町の東半分、三保一一町・一二町北半分、四保一〇町の地。貞和三年(一三四七)八月二九日付の感神院別当得分注文(祇園社記)には、七条坊門室町の芹町保(七条坊門室町東)が祇園社社領として挙げられ、「地丈十六丈、一丈別准布一段代銭廿文、銭丈別七文、七草菜在家別代銭廿文、盆供丈別七文、薪代丈別七文」と記されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by