日本歴史地名大系 「幡谷村」の解説 幡谷村はたやむら 群馬県:利根郡片品村幡谷村[現在地名]片品村幡谷現片品村の南端、片品川とその支流塗(ぬり)川の合流点に位置。東は片品川を挟んで平川(ひらがわ)村(現利根村)、北は摺淵(するぶち)村・花咲(はなさく)村、西は山地。「加沢記」によれば、永禄一二年(一五六九)沼田顕泰勢は花咲を経て当地に至り、片品川を越えて大渡代(おおとしろ)(現利根村)に向かっている。木賊(とくさ)(現川場村)から花咲峠(背嶺峠)を越えたもので、この道は会津への道として近世以後も使われた。そのほか当地には田代(たしろ)峠越と赤倉(あかくら)峠越の道が合した会津道も通じており、花咲からの道と合した。当地から片品川を渡って東南行する道を行くと、会津への本街道(会津街道)と結ばれる。 幡谷村はたやむら 千葉県:成田市幡谷村[現在地名]成田市幡谷土室(つちむろ)村の西に位置し、北は尾羽根(おばね)川を挟み高倉(たかくら)村(現下総町)。地名は香取神宮の祭神である経津主大神が当地で休息したとき、足下の谷を旗でさしたことによるという伝承があり、経津主大神が腰を掛けたと伝える香取様腰掛けの椎がある。天正二年(一五七四)と推定される一二月一八日の足利義氏書状写(喜連川家料所記)にみえる幡谷郷は当地にあたるか。文禄三年(一五九四)の検地帳(幡谷区有文書)に香取郡幡谷郷とあり、高四五三石余。佐倉藩領であったが、寛永一五年(一六三八)旗本松平領となり、元禄一一年(一六九八)佐倉藩領に復したとみられる。以後成毛(なるげ)村と同じ領主の変遷を経た。 幡谷村はたやむら 茨城県:東茨城郡小川町幡谷村[現在地名]小川町幡谷鎌田(かまた)川の左岸に位置し、西は川を隔てて小塙(こばなわ)村。当地の人といわれる幡谷弥三郎の名が「水府志料」の小川三町の項で、古城にかかわる資料「薗部書状之趣」に出る。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「幡谷村」とみえる。「水府志料」による戸数およそ一四。嘉永三年(一八五〇)の「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)は戸数一九とし、当村は「御立山壱町九反七畝廿六歩、分付山弐町六反壱畝廿歩」とあり、他村に比べ分付山(民有林)が多い。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by