平得村(読み)ぴいさいむら

日本歴史地名大系 「平得村」の解説

平得村
ぴいさいむら

[現在地名]石垣平得ひらえ

登野城とうぬすく村の東に位置し、ピィサイという。南北に細長い村域をなし、北は於茂登うむとう岳の南に連なる山地で、南端にある集落は道路を挟んで真栄里まいざとう村の集落と接する。伝承では村落発祥の地は宮良めーら川と支流底原すくばる川の合流地の南側、ヘーギナーばる平喜名へーぎなー遺跡で、そこから南のアラスクばる平得ひらえアラスクむら遺跡(県指定史跡)、ナカンドゥばる仲本御嶽なかもとおん遺跡などを経て現在地に定着したという。

両島絵図帳の大浜ほーま間切に村名がみえ、高二四〇石余。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上にはみえない。一時石垣いしやなぎい間切登野城村役人の管轄下にあったが、康熙三一年(一六九二)黒島ふしいま保里ぷり二ヵ村(現竹富町)から二二〇人を寄百姓して独立が認められ、翌年村役人が配置された(八重山島年来記・参遣状)。独立後人口は急激に増加したとみられ、耕地を求めて四里余も離れた桃里とーざとうまで出作、雍正一〇年(一七三二)桃里村創建には他村とともに寄百姓した(八重山島年来記)。乾隆二年(一七三七)の調査報告によると村回り一五町余、人口は一千五三九人で、石垣いしやなぎい村・登野城村に次いで多い。風気も土地柄もよく、田畑も広く住みやすいが、蔵元に近いため臨時の公事勤めが多く、百姓の負担は大きいという。人口の増加に見合った耕地の確保は困難で、大浜ほーま村とともに一里ほど北の仲原野でも耕作していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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