真栄里村(読み)めーざとうむら

日本歴史地名大系 「真栄里村」の解説

真栄里村
めーざとうむら

[現在地名]糸満市真栄里まえざと

国吉くにし村の西に位置し、北は兼城かにぐすく間切糸満いちまん村、西は海に面する。メーザトゥ村とよぶ。はじめ島尻兼城しまじりかにぐすく間切に属し中城なかぐすく村と唱えたが、間切境の変更により高嶺たかんみ間切に編入され真栄里村に改称されたと思われる。慶長一八年(一六一三)一二月一五日に首里王府から摩文仁(親方安恒)に宛行われた知行目録(南島風土記)に島尻金城間切中城村とみえる。絵図郷村帳・琉球国高究帳に島尻兼城間切中城村、「琉球国由来記」には高嶺間切に中城村と真栄里村が載る。高究帳によると高頭二四九石余、うち田一六一石余・畠八七石余。前掲由来記は嶽の項では中城村、年中祭祀の項では真栄里村と記載するが、間切集成図には真栄里村と崎中城さちなかぐすく村の二集落が描かれている。川田かーたガーと思われる位置と真栄里集落の後ろに井と記される。現在崎中城さきなかぐすくグスクとか真栄里まえざとグスクとよばれている場所には旧城の記載はない。一八八〇年(明治一三年)の県統計概表によるとヨナウシ馬場(幅五間・長さ一町)があるが描かれていない。


真栄里村
まいざとうむら

[現在地名]石垣市真栄里まえざと

南北に細長いJ字状の村域をなし、北は平得ぴいさい村。マイザトゥとよばれる。南端にある集落は多田たーだ浜とよばれた海岸に面し、道を隔てた北に平得村集落がある。北は於茂登うむとう岳南の山地に及び、北部を宮良めーら川支流の底原すくばる川が西流。

乾隆一五年(一七五〇)人口増加で諸事支障をきたした平得村が、八八五人を分けて真栄里村を設立したいと申請(八重山島年来記・参遣状)、この時は許可されなかったが、同三〇年に再申請して分村が認められた(八重山島年来記)。同三三年の間切改正で大浜ほーま間切に属し(与世山親方八重山島規模帳)、以後同間切。同三六年の明和大津波で村は跡形もなく波に洗われ、人口一千一七三人のうち九〇八人が溺死、番所・役人詰屋・家一七六軒、牛四頭・馬二二頭が流され、畑一七八町余のうち一六〇町、田四町余のうち二町余は表土が流出してしばらくは耕作不能となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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