平禅門の乱(読み)ヘイゼンモンノラン

デジタル大辞泉 「平禅門の乱」の意味・読み・例文・類語

へいぜんもん‐の‐らん【平禅門の乱】

鎌倉時代後期の永仁元年(1293)4月内管領として権勢を振るった平頼綱とその一族が、主君である第9代執権北条貞時に討伐された事件。平頼綱の乱。

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改訂新版 世界大百科事典 「平禅門の乱」の意味・わかりやすい解説

平禅門の乱 (へいぜんもんのらん)

1293年(永仁1)4月22日,得宗北条貞時の差し向けた討手によって得宗御内人(みうちびと)であり得宗家の内管領(うちかんれい)である平頼綱,および次男飯沼助宗ら一族90余人が滅ぼされた事件。《保暦間記》は頼綱が助宗を将軍に立てようとした陰謀が直接の原因であるとするが,これは貞時の頼綱打倒の口実であろう。1285年(弘安8)弘安合戦安達(あだち)氏を滅ぼした平頼綱は,14歳の貞時の乳父として幕府政治の実権を掌握した。以後7年有余の頼綱の専権は,たとえば91年(正応4)に本来将軍直轄の寺社・京下訴訟について,訴訟審理に遅怠があるとき,飯沼助宗や長崎光綱ら5人の御内人に訴えるようにしたことにみられるように,御内人が御家人の上に立ち監視する体制をつくろうとした点や,子息助宗を五位の検非違使判官,安房守という栄位栄官に昇らせたことにみることができる。《実躬卿記(さねみきようき)》は〈城入道(安達泰盛)誅せられし後,彼の仁(頼綱)一向執政,諸人恐懼の外,他事なく候〉と伝えている。成人に達した若き得宗貞時の果断な行動によって御内人頼綱の専権は終止符を打たれ,以後,貞時の手にすべての権力が集中する得宗専制政治体制がつくられていった。
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世界大百科事典(旧版)内の平禅門の乱の言及

【北条貞時】より

…以後,内管領平頼綱のもとで御内人(みうちびと)による支配が公然化する。93年(永仁1)貞時は自己の立場を脅かす平頼綱を誅殺(平禅門の乱)。貞時は貨幣経済の進展に伴い窮乏化する御家人の保護をはかり97年(永仁5)徳政令を発する一方,引付,越訴方をいったん廃止して独裁権力を行使した。…

※「平禅門の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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