康助(読み)こうじょ

朝日日本歴史人物事典 「康助」の解説

康助

生年生没年不詳
平安後期の仏師覚助の孫,頼助の子で康朝の父と伝えられる。豪助とも書く。奈良仏師だが頼助の死後,京都でも活躍した。永久4(1116)年春日西塔の造仏の功で法橋に叙せられ,以後,大治4(1129)年日野宗忠本願の日野新堂周丈六阿弥陀像の造立など,院・摂関家関係の造仏にしばしば携わり,保延6(1140)年には鳥羽院御願の春日御塔の造仏により法眼となる。その後,久寿1(1154)年の鳥羽金剛心院の造仏では賞を康朝に譲り,翌2年,藤原忠実本願の安楽寿院不動像の造立で「康助法橋」と記される(『兵範記』)まで,多数の活躍が知られる。一方,日野新堂の造像に際し,宗忠の命で同寺の定朝仏を実測して参考にしたと伝えられ,その自筆書状にみえる「木も板も細々に」との注文も合わせて考えると,彼は古典研究に努め,木寄せに独特の工夫をこらしたとも推測される。遺品については,長寛2(1164)年の蓮華王院(三十三間堂)千体千手観音造立を康助の主宰とし,平安時代作の百二十数体中の一部にその作風をたどる説,あるいは旧谷上大日堂本尊と伝えられる金剛峯寺大日如来像を,久安4(1148)年の康助の作に当てる説などがある。<参考文献>水野敬三郎「仏師康助資料」(『美術研究』206号),田中嗣人「仏師康助の新史料」(『日本古代仏師の研究』),武笠朗「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如来像」(『仏教芸術』189号)

(浅井和春)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「康助」の意味・わかりやすい解説

康助 (こうじょ)

平安後期の仏師。生没年不詳。豪助とも書き,頼助の子と伝え,定朝4代目の孫とされる。頼助とともに奈良に下って興福寺大仏師をつとめ,1116年(永久4)法橋を授けられた。29年(大治4)ごろから,頼助時代には行わなかった京での造像をも手がけ,主として院による白河,鳥羽の各寺の造仏を行っている。40年(保延6)には鳥羽院御願の春日御塔造仏により法眼となる。64年(長寛2)大仏師として多くの仏師を率いて京都蓮華王院(三十三間堂)の一千一体の千手観音像を造ったことが代表的業績である。その遺作には確実なものがないが,蓮華王院に現存する120数体の平安期作の像のうちに,彼の作品があるともいわれる。彼は当時流行した定朝様の踏襲にはあきたらず,古像の研究や,寄木造の木寄せ法にも新たな工夫をこらすなど,努力を怠らなかったようである。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「康助」の意味・わかりやすい解説

康助
こうじょ

平安時代後期の仏師。豪助とも称する。運慶の祖父。大治4 (1129) 年,日野法界寺の丈六の阿弥陀像,長承1 (32) 年薬師仏,十二神将を造像,保延6 (40) 年法眼となる。仁平3 (53) 年白川御塔の造立,翌年鳥羽金剛心院の釈迦三尊像,久寿2 (55) 年安楽寿院不動堂の本尊の造仏などが記録される。遺作はまだ確認されていない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「康助」の解説

康助 こうじょ

?-? 平安時代後期の仏師。
頼助(らいじょ)の子といわれ,父とともに奈良興福寺大仏師をつとめる。京都鳥羽(とば)金剛心院の釈迦三尊像などの造仏をおこない,木寄せに工夫をこらした。長寛2年(1164)蓮華(れんげ)王院本堂(三十三間堂)の千体千手観音像制作を主宰した。名は豪助ともかく。

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