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頼助 らいじょ

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朝日日本歴史人物事典の解説

頼助

没年:元永2.6.9(1119.7.18)
生年:天喜2(1054)
平安後期の奈良仏師。定朝の孫で覚助の子,または弟子と伝えられる。永長1(1096)年に焼失した興福寺諸像の復興修理に当たって「御寺(興福寺)仏師」と記され,康和5(1103)年の落慶供養に際して法橋に叙せられた。このほか天永1(1110)年にも同寺諸像を修理し,永久4(1116)年には春日西塔仏を造顕するなど,多数の造像に携わったことが知られている。一方,永久1年の興福寺大衆による白河法皇の呪咀事件の際に,呪咀のための不空羂索観音像を造ったと疑われたが,のちに無罪となっている。興福寺を中心に主に奈良で活躍したため,頼助以後の系統を奈良仏師と呼んでいる。

(浅井和春)

頼助

没年:永仁4.2.28(1296.4.2)
生年:寛元4(1246)
鎌倉後期の真言宗僧。執権北条経時の子。佐々目大僧正。弘安6(1283)年に北条氏出身の僧にして初めて鎌倉鶴岡八幡宮の別当に任ぜられ,没年まで勤める。弘安10年東寺長者,永仁2(1294)年(一説に正応5年)東大寺別当に任ぜられ,大僧正に上るが,師の守海から継承した鎌倉佐々目遺身院を拠点として,鎌倉に在った。晩年は執権貞時邸での修法に明け暮れる日々で,ことに永仁1(1293)年鎌倉大地震のときには,殿中で大北斗法を修し,手替を弟子の親玄が勤めたことなど,その活動は『親玄僧正日記』に詳しい。<参考文献>湯山学「頼助とその門流」(『鎌倉』39号)

(土谷恵)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

らいじょ【頼助】

1246‐96(寛元4‐永仁4)
鎌倉時代の真言宗の僧侶。本名頼守。亮法印,佐々目僧正,円城寺等の称がある。鎌倉幕府の執権北条経時の子で,上洛して守海,良海,法助ら当代一流の高僧から法を受け,醍醐寺理性院,高野山新別所院,仁和寺真乗院を管領。1283年(弘安6)には,北条一族としてはじめて鶴岡八幡宮別当となり,さらに東寺長者,東大寺別当といった中央大寺院の要職を兼帯した。【外岡 慎一郎】

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世界大百科事典内の頼助の言及

【慶派】より

…覚助は父定朝に劣らぬ技能を備えていたらしいが,若年で没しており,その後をうけたのは定朝の弟子長勢,覚助の弟子院助であり,彼らは京都を中心に活躍する。覚助の子頼助は技術の上では院助より劣っていたらしく,中央では容れられず,早くから南都奈良に下って,祖父定朝以来関係の深かった興福寺の仏師となった。当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。…

【康助】より

…生没年不詳。豪助とも書き,頼助の子と伝え,定朝4代目の孫とされる。頼助とともに奈良に下って興福寺大仏師をつとめ,1116年(永久4)法橋を授けられた。…

※「頼助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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