頼助(読み)らいじょ

改訂新版 世界大百科事典 「頼助」の意味・わかりやすい解説

頼助 (らいじょ)
生没年:1246-96(寛元4-永仁4)

鎌倉時代の真言宗僧侶。本名頼守。亮法印,佐々目僧正,円城寺等の称がある。鎌倉幕府の執権北条経時の子で,上洛して守海,良海,法助ら当代一流の高僧から法を受け,醍醐寺理性院,高野山新別所院,仁和寺真乗院を管領。1283年(弘安6)には,北条一族としてはじめて鶴岡八幡宮別当となり,さらに東寺長者,東大寺別当といった中央大寺院の要職を兼帯した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「頼助」の解説

頼助(2) らいじょ

1246-1296 鎌倉時代の僧。
寛元4年生まれ。北条経時(つねとき)の子。真言宗。京都仁和(にんな)寺の法助に灌頂(かんじょう)をうける。弘安(こうあん)6年(1283)北条氏出身初の鶴岡八幡宮の別当となる。のち東寺長者をへて東大寺別当をつとめ,大僧正となった。永仁(えいにん)4年2月28日死去。51歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。通称は佐々目(篠目)僧正。号は園城寺。

頼助(1) らいじょ

1054-1119 平安時代後期の仏師
天喜(てんぎ)2年生まれ。定朝(じょうちょう)の孫。覚助の子。仏所を京都から奈良にうつし,興福寺仏像を修復して康和5年法橋(ほっきょう)となる。永久元年白河法皇呪詛(じゅそ)の観音像をつくったとうたがわれた。元永2年6月9日死去。66歳。

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世界大百科事典(旧版)内の頼助の言及

【慶派】より

…覚助は父定朝に劣らぬ技能を備えていたらしいが,若年で没しており,その後をうけたのは定朝の弟子長勢,覚助の弟子院助であり,彼らは京都を中心に活躍する。覚助の子頼助は技術の上では院助より劣っていたらしく,中央では容れられず,早くから南都奈良に下って,祖父定朝以来関係の深かった興福寺の仏師となった。当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。…

【康助】より

…生没年不詳。豪助とも書き,頼助の子と伝え,定朝4代目の孫とされる。頼助とともに奈良に下って興福寺大仏師をつとめ,1116年(永久4)法橋を授けられた。…

※「頼助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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