弘道館跡(読み)こうどうかんあと

日本歴史地名大系 「弘道館跡」の解説

弘道館跡
こうどうかんあと

[現在地名]佐賀市松原二丁目

八代藩主鍋島治茂は、藩政改革のために人材登用の必要から「ところを国都の中に相し、新に学宮をせいしようがいはじめ」として、佐賀城下の松原小路まつばらくうじの相良十郎大夫の屋敷跡に天明元年(一七八一)九月文武稽古場を建て、同年暮に「弘道館」と命名した。

内生寮(寄宿所)・拡充局(一七歳以上の侍・手明鑓・陪臣待遇までの履習)・蒙養舎(一六歳以下)などの施設があり、身分・年齢などによって当初は分けられた。


弘道館跡
こうどうかんあと

[現在地名]出石町材木

伊木いぎ町の西端にあった出石藩の藩校。出石藩の藩校は安永四年(一七七五)藩主仙石政辰が城の東門外から伊木町にかけての家中屋敷地に仮校舎を設け、学問所としたことに始まる(兵庫県教育史)。天明二年(一七八二)には同じ地に敷地六〇一坪・建坪二四一坪余の本校舎を建て、古学派の伊藤東所(伊藤仁斎の孫)を招いて開講式を行った。弘道館の校名は「論語」の「人能く道を弘む、道人を弘むるに非ず」から採り、藩主仙石久行自らが揮毫した扁額(現在弘道小学校に保管)を掲げた。


弘道館跡
こうどうかんあと

[現在地名]福山市西町二丁目

天明六年(一七八六)城西の堀端に建立された福山藩藩校。藩士の教育機関として建設されたが、庶民にも聴講の門戸を開いていた。開館に先立って月番触が出され「此度弘道館御経営ニ付テハ、近々講習相始候間、御家中始、組ノ者等ニ至迄出席勝手次第ノ事ニ候」(「御用状控帖」三谷家蔵)とし、さらに藩内にも触が出され「今度学問所御造営ニ付、近々講習相始候間、郡中志有之輩ハ以家業之余力出席可為勝手次第候」(同控帖)とあって庶民の出席を許し、後には館内に庶民の溜所を設けて聴講させている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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