後地村(読み)うしろじむら

日本歴史地名大系 「後地村」の解説

後地村
うしろじむら

[現在地名]尾道市尾崎おざき町・尾崎本おざきほん町・新高山しんたかやま二―三丁目・久保くぼ町・東久保ひがしくぼ町・西久保にしくぼ町・久保一―三丁目・防地ぼうじ町・十四日とよひ町・長江ながえ一―三丁目・東土堂ひがしつちどう町・西土堂にしつちどう町・東御所ひがしごしよ

御調みつぎ郡海岸沿いの最東端に位置し、御調郡の郡本が置かれた。もと尾道村といい、村の海岸沿いに成立した町部を尾道浦と称した。のち尾道浦は分離し、尾道町となった。御調郡の「国郡志下調郡辻書出帳」によると、寛永六年(一六二九)に尾道村の名を後地村に改称している。村域の北部に山地があるが大部分丘陵と開析谷からなる。近世の山陽道が東北部より防地川沿いに南下し、尾道町を通って再び当村の西南部を経て隣村栗原くりはら村へ通じる。

後地村
うしろじむら

[現在地名]江津市後地町

那賀郡北東部、北東は黒松くろまつ村、東は邇摩にま波積北はづみきた村、西は浅利あさり村、北は地先波来浜ならはまの砂浜地帯を黒松村に占有されたかたちで海から遮断され、わずかに尾浜おばまの一部で日本海に臨む。慶長七年(一六〇二)八月大久保長安による検地が猪飼太郎助を奉行として行われ、行政村としての後地村が成立した(「那賀郡都治之内黒松分御検地帳写」森家文書)。枝郷の尾浜に置かれた今浦いまうら船表番所(現温泉津町)兼帯の尾浜船表の添村に指定された。尾浜船表の添村は当村一ヵ村で、番所の諸経費を負担し幕末に至る(「石見国郡中入用其外取計定書」重富家文書)正保国絵図に村名がみえ、高四六六石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方四一三石余・畑方五三石余・新田畑高四石余、年貢高は米一一四石余・銀四三〇匁余、家数本家二八・門屋五七、人数四〇八、馬一〇・牛二〇、小物成は枝郷尾浜で水夫一人役九匁・塩浜役三九匁余で、猟師鉄砲一挺がある。

後地村
うしろじむら

[現在地名]福山市鞆町鞆・鞆町後地

北は田尻たじり村、西は能登原のとはら(現沼隈郡沼隈町)に接し、東・南は海。沼隈半島に延びるくまヶ峰山塊の東側斜面に位置する。ほぼ中央に鞆町を挟み、白茅しらかやから室浜むろはままでの細長い村である。本来、鞆町と一体の村であるが、福島氏の慶長検地によって鞆町の後背地をなす農村として分離された。

福島氏時代の村高は一五三石余(元和五年備後国知行帳)、ただし「西備名区」は三〇七石余とする。寛文一一年(一六七一)の地詰では三四三石余とされ、水野氏断絶直前の地詰高は三五三石前後(「沼隈郡本検書出帳」広島大学蔵、水野記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報