日本歴史地名大系 「鞆町」の解説
鞆町
ともまち
近世初期福島氏時代の鞆には、中世の
〔村高〕
福島氏時代の鞆町の村高は、元和五年の備後国知行帳によると三一〇・八一五石である。一方「西備名区」は福島氏時代の村高を一五六・七三石とする。水野氏時代には、寛文一一年(一六七一)に地詰が行われているが、鞆町は屋敷とわずかの畑からなり、合わせて六町一反二畝九歩、高一九〇・六六石であった。その後、屋敷地の築出などによる地詰が少しずつ行われ、水野氏断絶時には地詰高で二一石余の増加があった(「沼隈郡本検書出帳」広島大学蔵)。さらに、この地詰高に小物成等を米換算した六十数石余を加え、結局、水野氏断絶時には村高二七五・七八五石として算定されている(備陽六郡志)。地詰高に、小物成などを含めて村高が算定されているのは、地詰による高だけでは水野氏が拝領した領知高一〇万石余に足りないためである(福山市史)。次に水野氏断絶後、幕府は岡山藩に命じて福山領内の検地を行うが、その元禄一三年(一七〇〇)の鞆町屋敷御検地水帳(広島大学蔵)によると、鞆町は八町一反三畝二二歩、高二〇八・七八五石であった。したがって、元禄検地による村高はほぼ水野氏時代の地詰高に近く、小物成等の加算はなくなっている。鞆の町は阿部氏時代にも少しずつ新開などによって拡大しており、天保郷帳では村高二一七・三〇六石となっている。以上のような経過から考えると、福島氏時代の鞆町の村高三一〇石余は疑問が残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報