鞆町(読み)ともまち

日本歴史地名大系 「鞆町」の解説

鞆町
ともまち

[現在地名]福山市鞆町鞆

近世初期福島氏時代の鞆には、中世大可島おおがしま城とは別に新たに三層の天守をもつ鞆城が築かれ、元和元年(一六一五)の一国一城令によっていちおう廃棄されるが、元和五年の福島氏改易の時まで城代大崎玄蕃・城番津田因幡などがいたという。福島氏は芸備入国後ただちに領内に検地を実施したが、それによって鞆は村方の後地うしろじ村と町方の鞆町に分離が行われた。ただし、町方とはいえ地子免除ではなかった。

〔村高〕

福島氏時代の鞆町の村高は、元和五年の備後国知行帳によると三一〇・八一五石である。一方「西備名区」は福島氏時代の村高を一五六・七三石とする。水野氏時代には、寛文一一年(一六七一)に地詰が行われているが、鞆町は屋敷とわずかの畑からなり、合わせて六町一反二畝九歩、高一九〇・六六石であった。その後、屋敷地の築出などによる地詰が少しずつ行われ、水野氏断絶時には地詰高で二一石余の増加があった(「沼隈郡本検書出帳」広島大学蔵)。さらに、この地詰高に小物成等を米換算した六十数石余を加え、結局、水野氏断絶時には村高二七五・七八五石として算定されている(備陽六郡志)。地詰高に、小物成などを含めて村高が算定されているのは、地詰による高だけでは水野氏が拝領した領知高一〇万石余に足りないためである(福山市史)。次に水野氏断絶後、幕府岡山藩に命じて福山領内の検地を行うが、その元禄一三年(一七〇〇)の鞆町屋敷御検地水帳(広島大学蔵)によると、鞆町は八町一反三畝二二歩、高二〇八・七八五石であった。したがって、元禄検地による村高はほぼ水野氏時代の地詰高に近く、小物成等の加算はなくなっている。鞆の町は阿部氏時代にも少しずつ新開などによって拡大しており、天保郷帳では村高二一七・三〇六石となっている。以上のような経過から考えると、福島氏時代の鞆町の村高三一〇石余は疑問が残る。

〔近世初期の鞆〕

福島氏時代の鞆は、前述のように鞆城が築かれるなど軍事的拠点としての性格が強かったが、中世以来の物資集散地として経済活動も盛んであった。

元和二年一一月に、大坂からの帰途鞆に立寄ったイギリス商館長リチャード・コックスは、ここで鉄を購入している。彼は前もって六〇〇ピコル(約三六トン)の鉄を、鞆の定宿の女主人に購入するよう依頼していたが、実際は一二〇ピコル余りしか入手できず、銀二貫一〇八匁四分を支払い、シャム国王に売ることにしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鞆町の言及

【鞆】より

…なお,これまで鞆では遺跡・遺物が確認されていなかったが,最近の発掘調査によって現市街地下に良好な状態で遺跡が存在していることが判明した。【志田原 重人】
[近世の鞆町]
 鞆は元来,平・原両村に属していたが,1601年(慶長6)福島正則の検地をうけ,町方の鞆町と村方の後地(うしろじ)村とに分離した。石高は鞆町310石余,後地村153石余,1700年(元禄13)の幕府検地では鞆町208石余,後地村428石余に変更された。…

※「鞆町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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