後藤村(読み)ごとうむら

日本歴史地名大系 「後藤村」の解説

後藤村
ごとうむら

[現在地名]和賀町後藤

横川目よこかわめ村の東、藤根ふじね村の北西に位置し、和賀川北岸、尻平しつたい川東岸の台地立地東部には標高一三〇メートル前後の後藤野台地が広がる。正保国絵図や元禄十郡郷帳には村名がみえない。元文三年(一七三八)の給人書上に村名がみえ、給人として富沢六右衛門がみえる。「邦内郷村志」によれば蔵分四四七石余・給分四二石余、家数三三、馬五一。享和三年(一八〇三)仮名付帳では家数三四、うち本村八、枝村の谷地やち一四・笹長根ささながね六・上後藤六。「邦内郷村志」にはほかに枝村として芦谷地あしやちがみえる。「管轄地誌」によれば田六一町七反余・畑一六〇町二反余、家数三七、人数男一三三・女一二〇、馬四九。


後藤村
ごとうむら

[現在地名]米子彦名町ひこなちよう

粟島あわしま村の西にあり、南は中海に面する。粟島村地先が米子の富商後藤氏の一族により開発されて成立した村。天保一〇年(一八三九)後藤氏三代目治部左衛門が提出した歎願書(在方諸事控)によれば、祖父治部左衛門の代、約九〇年以前の宝暦年間(一七五一―六四)新田開発を出願し、同四年許可された。開発予定地は砂山・砂原であったので、その砂を海岸に流して磯際から埋立てるという流し新田の方法をとり、九年以前までに高一一〇石余を開発、物成二五石余を上納したという。享和三年(一八〇三)地先新田として分村、天保五年新田村として届出た(藩史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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