精選版 日本国語大辞典 「光明院」の意味・読み・例文・類語 こうみょう‐いんクヮウミャウヰン【光明院】 ⇒こうみょうてんのう(光明天皇) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「光明院」の解説 光明院こうみよういん 群馬県:富岡市一ノ宮村光明院[現在地名]富岡市一ノ宮上信電鉄上州一(いち)ノ宮(みや)駅前にある。尾崎山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。古くから一宮貫前(ぬきさき)神社の別当寺で、「和漢三才図会」に「抜鉾大明神在甘楽郡、祭神一座経津主命、社領五百石、安閑天皇朝出現、称貫前神社、神主民部、別当光明寺」とある。寺伝によると天徳四年(九六〇)抜鉾(ぬきほこ)神社祠官の尾崎志摩守光明の開基で、山号・院号は開基の名からとったという。中興開山は正暦年間(九九〇―九九五)上野守多田満仲の子美丈麿で、薙髪して源賢法印と称したという。西側の本宿(もとじゆく)・郷土(ごうど)遺跡、東側の稲荷森(とうかもり)遺跡の発掘調査からも、当寺は一四世紀までさかのぼることが考えられ、周堀がめぐらされていて、そこから宗教色の濃い遺物が検出されている。一方、新田氏に縁深い長楽(ちようらく)寺(現新田郡尾島町)の末寺であり、八幡太郎義家の舎弟法釈房義源の開山ともされているが(「穴太流等印信惣目録」長楽寺文書)、都法灌頂秘録(同文書)によると義源は延慶二年(一三〇九)一月晦日に受法していることからして信憑性を欠くが、彼が光明院と関係深かったことは知られる。 光明院こうみよういん 広島県:佐伯郡宮島町東町光明院[現在地名]宮島町 大町厳島神社の東、塔の岡(とうのおか)南の岡にあり、浄土宗。華降山と号し以八(いはち)寺とも称する。本尊阿弥陀如来。「厳島道芝記」に「神泉寺の下の山なり、開基以八上人なり、天文年中に以八・袋中とて兄弟の僧あり、共に志ふかくして弟の袋中法師は都鳥辺野の山下に念仏三昧の庵を結ぶ(中略)兄の以八上人は繁花の地を避け此所に纔なる草庵を結び、六時不断の称名の床を花にそむき月にたれこめて住めり(中略)かくて上人臨終到りしかば五色の降花空に充ちぬ、それより山号を花降山、院号を光明院と名づく」と記す。 光明院こうみよういん 和歌山県:伊都郡高野町高野山蓮華谷光明院[現在地名]高野町高野山恵光(えこう)院の南にある。本尊阿弥陀如来。準別格本山。開基は橘行清。寺伝によれば、寿永年間(一一八二―八五)行清の師円恵法親王が木曾義仲の手により京都東山法住(ほうじゆう)寺殿(現京都市東山区)で殺され、行清はその遺骨を高野山に納め、菩提を弔うため一庵を建立したのに始まるという。 光明院こうみよういん 茨城県:結城郡石下町小保川村光明院[現在地名]石下町小保川小保川(おぼかわ)集落ほぼ中央に所在。鳳開山と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。寺伝によると享禄年中(一五二八―三二)下妻城主多賀谷家植が今泉(いまいずみ)村(現下妻市)に創建。天正(一五七三―九二)頃無住となり、万治年間(一六五八―六一)当地に移る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by