後閑村(読み)ごかんむら

日本歴史地名大系 「後閑村」の解説

後閑村
ごかんむら

[現在地名]月夜野町後閑

真庭まにわ村の北、利根川左岸に位置する。同川と赤谷あかや川合流地点の竹之下たけのした河原付近に戦国期、橋が架かっており、猪俣能登守合戦覚書(猪俣文書)に「こかんノ橋」での合戦が記される。「加沢記」は天正八年(一五八〇)の小田原北条氏と真田昌幸の戦いを、竹下合戦可斎武略の段で詳述しており、「沼田根元記」にも同年同所での戦いが記される。また字城山じようやま(比高約六〇メートル)要害が構えられており、麓に明徳めいとく寺があることから明徳寺城あるいは天神山てんじんやま城とよばれた。北・東・南には二重、西側は一重土居をめぐらし堀を挟む。外側数メートル下に複曲輪がつき高さ四〇メートルの急斜面につながる。南面に追手、北面に搦手のほか東西に虎口が開く。天正七年には北条方の渡辺左近・西山市之丞・師大助らが同城に立籠り武田景勝・勝頼らの連合軍と対峙。翌八年正月には真田昌幸に攻め落され沼田への足がかりとして利用された(加沢記)

寛文郷帳によると田方一四八石余・畑方二二六石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高一千六八七石余。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高六三六石余、反別は田三七町余・畑五八町七反余。代々の沼田城主のうち、とくに真田信政は各地の開発に力を注いだ。当地を流れる四ヵ村用水も信政の時代の開削で、慶安三年(一六五〇)着工、承応元年(一六五二)に完成した。延長一二・五キロ。奈女沢なめざわより利根川の水を入れ、上牧かみもく・下牧・後閑・もろの四ヵ村を貫流するためこの名が付けられた。


後閑村
ごかんむら

[現在地名]前橋市後閑町・広瀬町ひろせちよう

北と西は朝倉あさくら村、東の広瀬川対岸は勢多せた天川大島あまがわおおしま村・同郡下大島しもおおしま村、南は那波なは西善養寺にしぜんようじ村、下佐鳥しもさどり村。文永三年(一二六六)一二月一一日の関東下知状(山本吉蔵氏所蔵文書)で「上野国大室庄東神沢後閑内田弐町参段・在家弐宇」が税所新左衛門尉平広幹に安堵されており、大室おおむろ庄に含まれていた。天正二〇年(一五九二)二月二七日の知行書出(御嶽神社文書)によれば、平岩親吉が甲斐の国人御嶽衆二四人に対し、合計三千二五俵を宛行っている。このうち二千五五五俵余が「後閑之郷」からのものである。寛文郷帳に田方三三八石五斗余・畑方六五五石四斗余とある。


後閑村
ごかんむら

[現在地名]玉野市後閑

村の西に位置し、東方は瀬戸内海に突き出た崎の南半分をも含む細長い村域をもつ。寛永備前国絵図によれば村高一五九石余。享保六年(一七二一)の家数三三・人数二四二、田畠合せて一〇町八反余、うち塩浜一反九畝余、船一(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高一五九石余、直高一八二石余で蔵入、田六町五反余・畑四町一反余・塩浜三反七畝余、池一二・樋一四・井戸二、橋二、家数六五・人数三三七、牛三〇、船一〇、猟師鉄砲二、塩竈二軒・紺屋一軒、家大工二がいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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