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平岩親吉 ひらいわちかよし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平岩親吉
ひらいわちかよし

[生]天文11(1542).三河
[没]慶長16(1611).12.30. 尾張,名古屋
安土桃山,江戸時代初期の武将。親重の子。幼時から徳川家康に仕え,のち家康の長子信康の傅役 (かしずきやく) となった。家康の関東入部後,上野厩橋 (現在の前橋) 城主となり,3万 3000石を領し,慶長6 (1601) 年甲斐府中に移封されて6万 3000石を領した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平岩親吉 ひらいわ-ちかよし

1542-1612* 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。幼時から徳川家康につかえ,家康の長男信康の守役(もりやく)をつとめる。小田原攻めで功をたて,天正(てんしょう)18年上野(こうずけ)前橋城主となる。のち甲府城代をへて,家康の9男徳川義直の付家老となり,尾張(おわり)犬山9万3000石(一説に12万3000石)をあたえられた。慶長16年12月30日死去。70歳。三河(愛知県)出身。幼名は七之助。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平岩親吉

没年:慶長16.12.30(1612.2.1)
生年:天文11(1542)
戦国・江戸前期の武将。松平氏譜代の家臣平岩親重の子。三河生まれ。母は天野貞親の娘。通称七之助。徳川家康と年齢がほぼ同じで,家康が今川義元によって駿府に抑留されるとき,選ばれてこれに従った。永禄3(1560)年,家康が自立してからはその馬廻衆として側近となった。次いで家康の長男信康の傅役となったが,信康が天正7(1579)年切腹させられてから謹慎。家康に請われて再出仕し,天正18年,家康の関東移封後,上野厩橋(前橋)城主3万3000石。関ケ原の戦後,甲斐府中城6万3000石となり,家康の9男義直付の家老となり,義直が尾張に転じたとき,尾張犬山城9万3000石(一説に12万3000石)となった。

(小和田哲男)

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世界大百科事典 第2版の解説

ひらいわちかよし【平岩親吉】

1542‐1611(天文11‐慶長16)
江戸初期の徳川家武将。幼名七之助。三河の人。父は親重。主計頭。家康と同年で幼時より近侍し,数次の合戦に武功をたて,家康の長男信康の傅(もり)役となった。上野厩橋(まやばし)3万3000石を領し,のち甲斐へ転封。1603年家康の子義利(義直)に付属され,07年その尾張移封により,同国国政をとって犬山9万3000石,一説に12万3000石を受けた。死後,無子絶家。【林 董一】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平岩親吉
ひらいわちかよし
(1542―1611)

安土桃山・江戸前期の武将。通称七之助、主計頭(かずえのかみ)。徳川家康と同年の生まれで、幼少より徳川家康に仕え、各地を転戦。家康の長男信康(のぶやす)の傅役(もりやく)となったが、1579年(天正7)信康切腹により一時幽居。1590年上野国(こうずけのくに)厩橋(うまやばし)城主となり、3万3000石を領有した。家康八男仙千代を養子とするが、夭折(ようせつ)。関ヶ原の戦後に甲府城代(領知6万3000石)。家康の九男義直(よしなお)の傅役となり、義直の甲府から清洲(きよす)への転封(てんぽう)で犬山城主(12万3000石、一説に9万3000石)となり、引き続き領国統治。無嗣断絶。[下村信博]
『犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会編『犬山市史』通史編上(1997・犬山市) ▽北島正元著『江戸幕府の権力構造』(1964・岩波書店)』

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世界大百科事典内の平岩親吉の言及

【尾張国】より

…07年忠吉は病死し嗣子がなく絶家。家康の九男徳川義直が甲斐府中城主から清須城主となり尾張一円を領したが,幼少のため従来どおり駿府の家康の手もとにとどまり,吉次を常陸笠間に移し義直の重臣平岩親吉を入れ9万3000石を領し代わって国政を執らせた。翌年検地実施,高47万2344石と定まる。…

【尾張藩】より

…あとへ家康の9子徳川義直が甲斐より移封,翌年将軍秀忠の尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。しかし当時義直は幼少で駿府の父のもとにあり,国政は傅(もり)役の平岩親吉がとった。10年名古屋築城により,清須から士民を移住させた。…

【甲斐国】より

…【磯貝 正義】
【近世】
 1582年武田氏が滅亡すると,甲斐は織田信長の臣河尻秀隆の支配をうけた。まもなく本能寺の変後起こった一揆により秀隆が誅滅されたあと,甲斐をねらう後北条氏との係争に勝利を得て入国した徳川家康は,平岩親吉を甲府城代に任命した。90年家康が関東に移されると羽柴秀勝が封ぜられ,翌年には加藤光泰にかわった。…

【上野国】より

…上野国は江戸城北辺の外郭に当たる防衛線であったから,とくに家康側近の重臣を配置した。まず徳川四天王の井伊直政を榛名山東南麓の箕輪城12万石に封じて信越両国に備え,榊原康政を館林城10万石に封じて常陸の佐竹氏や東北に備えたのをはじめ,平岩親吉を厩橋城3万3000石,奥平信昌を宮崎城(のち小幡)2万石など,万石以上11氏を戦国以来の要城に配備した。初期の諸侯はその後いくたびか改廃があり,中期以後は前橋,高崎,館林,沼田,安中(以上城持),小幡,伊勢崎,七日市,吉井(以上陣屋)の9藩が幕末までつづいた。…

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