御領村(読み)ごりようむら

日本歴史地名大系 「御領村」の解説

御領村
ごりようむら

[現在地名]五和町御領

しも島の北東部に位置し、有明海に面している。地名は建島松命が天草国造に任じられ、当地の大島おおしまに上陸したことに由来するという。縄文後期の一尾ふとお貝塚弥生・古墳時代の遺物を包含する中尾なかお遺跡がある。建暦二年(一二一二)八月二二日付関東下文案(志岐文書)によれば、志岐氏の祖とされる藤原光弘が元久二年(一二〇五)下島北部一帯の天草六ヶ浦の地頭に補任されているが、当地は同下文案にみえる佐伊津さいつ(現本渡市)鬼池おにいけの中間に位置するところから、中世志岐氏の支配下にあったと思われる。

慶長国絵図に村名がみえる。寛永一四年(一六三七)二月二一日の寺沢広高判物写(天草文書)によると、当村のうち三〇〇石が天草新介に宛行われた。正保郷帳に高一千三三一石六斗余とある。

御領村
ごりようむら

[現在地名]頴娃町御領

牧之内まきのうち村の西に位置し、南は海に臨む。享保一一年(一七二六)村内西部から北部にかけてを別府べつぷ村として分村(文政七年「頴娃郷旧跡帳」県立図書館蔵)馬渡まわたり浦があり、庄屋役所は九玉くだまにある。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高三千八〇六石余。元禄一一年(一六九八)の頴娃村里改帳(県立図書館蔵)では高二千九石余、衆中人躰一二、衆中屋敷七ヵ所、竈数は衆中一六・百姓三八一。「三州御治世要覧」によると、延享(一七四四―四八)頃の高一千九六〇石余。

御領村
ごりようむら

[現在地名]大野市御領

きようヶ岳から流れ出た泥流の下流堆積地にあり、北は大月おおつき村、南は伏石ぶくいし村。慶長二〇年(一六一五)三月一八日の御領村定免申渡写(伊藤家文書)によれば、村高は一六八・一六八石。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)二七・〇三三石が木本藩領、残り一四一・一三七石が福井藩領とされた(同文書)。しかし同一二年木本藩が消滅したため、二七石余は福井藩預に、さらに正保元年(一六四四)には福井藩領に復した。しかし貞享三年(一六八六)には幕府領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。

御領村
ごりようむら

[現在地名]大東市御領一―四丁目・氷野ひの三丁目・大東町

現市域北西部の低平地に位置し、北は下馬伏しもまぶし村・下島頭しもしまがしら(現門真市)、西は新田しんでん村、南は氷野村、東は深野ふこの池であったが干拓後は尼ヶ崎あまがさき新田となる。讃良さらら郡に属する。地名について地元では、朝廷御料あるいは室町幕府御料であったことによるというが徴証がなく、朝廷御料とは平安前期の赤江あかえの供御江をさすともいう。

御領村
ごりようむら

[現在地名]不知火町御領

東は松山まつやま(現宇土市)、西は小曾部こそぶ村、南は高良こうら村、北は柏原かしわばら村に接し、北から南へ薩摩街道、街道から南へ富岡とみおか往還が通じる。村の中央に園田そのだ、北東に御手水おちようず、北西から西に尻川しりがわなどの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。「国誌」に「里俗御領町ト云、府ヨリ四里半町内一町四間アリ、下益城郡松橋村ニ堺ヘリ」とある。正保郷帳には田方四〇三石四斗余で「日損所」とあり、畠方九三石五斗余。

御領村
ごりようむら

[現在地名]合志町福原ふくはら

竹迫たかば町に北接し、野付のつき村に西接する畑作地帯。戦国末期の寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「一田三反 一畑弐反 御領村天神宮」と村名がみえ、合志氏の土地寄進を伝える。慶長一三年(一六〇八)検地帳には、名請人三五・屋敷持三・家数八、屋敷二反四畝余、牛馬五、畠・屋敷一九町七反八畝余、分米八六石余とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳によれば竹迫組に属し、戸数七・家数九八、人数一〇六(うち庄屋一・百姓六・名子一七・下人五)、牛馬四九、高二六〇石。その後竹迫手永に属した。

御領村
ごりようむら

[現在地名]作手村守義もりよし

下菅沼より東北に山を隔て、木和田きわだ村の北にあり、小滝こたき川の上流にあたる。慶長七年(一六〇二)より作手藩領であったが、その後慶長一一年より新城藩領となったとする説と、元和元年(一六一五)より同五年まで石川日向守領であったとする説もあって、いずれとも定め難い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android