徳長村(読み)とくながむら

日本歴史地名大系 「徳長村」の解説

徳長村
とくながむら

[現在地名]三原町市徳長いちとくなが

十一じゆういつしよ村の西にある。堀川ほりかわ・徳長・かくれの三傍示がある(味地草)。永正一五年(一五一八)三月二八日、淡路屋与三次郎光長から中嶋北殿に売渡された伊勢道者職の在所のうちに、「徳長一円」とある(「道者売券」来田文書)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「とくなか村」とあり、三二〇石九斗が羽柴秀吉の蔵入地となっていた。寛永四年(一六二七)検地帳(三原町教育委員会蔵)では反別三三町九反余・高三八八石余。


徳長村
とくながむら

[現在地名]鳴門市大津町徳長おおつちようとくなが

吉永よしなが村の南にある。河口部に近い吉野川(現旧吉野川)が南をほぼ東に流れる低湿地で、水害のみでなく旱魃時は潮指しによる塩害も受ける。古くは入海で、万治年中(一六五八―六一)に開発され南大須みなみおおず(南大津)村といったが、宝永七年(一七一〇)に徳長村と改称したといわれる。村名は徳永とも記される。また開拓前は木津きづ村のうちで、木津新村と称したともいう(郡村誌)。さらに段関だんぜき村開発者吉成善太夫の子孫宅兵衛が寛文元年(一六六一)に開拓したとも伝える(「申上書」山田家文書)


徳長村
とくながむら

[現在地名]西伯町徳長

馬場ばば村の南西山田谷やまだだに川の中流に沿って位置する。地名中世の名に関連するとの説もある(西伯町誌)。天保一四年(一八四三)の田畑地続全図(同町誌)によれば、耕地の大半は山田谷川沿いの両岸に開かれている。拝領高は一七三石余、本免は五ツ六分。藪役銀四匁一分が課され(藩史)、米子荒尾氏の給所であった(給人所付帳)幕末の六郡郷村生高竈付では生高二〇二石余、竈数二四。「伯耆志」では家数二四・人数一〇五、林一三町四反余。明治三年(一八七〇)の御用方諸事手控(細田家文書)によると耕地面積一五町五反余・山林面積一三町四反余、職人として大工木挽・桶工各一がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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