日本大百科全書(ニッポニカ) 「忍坂大中姫」の意味・わかりやすい解説
忍坂大中姫
おしさかのおおなかつひめ
「記紀」に伝承される允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后。父は応神天皇の子、稚野毛二派(わかのけふたまた)皇子(『古事記』は若沼毛二俣王、『上宮記』は若野毛二俣王)。母は百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、別名弟日売真若比売(おとひめまわかひめ)命。『古事記』は忍坂之大中津比売命にもつくる。安康天皇・雄略天皇など五男四女を生む。反正天皇没後、夫の雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)皇子(のちの允恭天皇)が群臣から推挙されたにもかかわらず、病身を理由に即位を固辞したため、妃の忍坂大中姫はみずから手洗水をとって、即位を懇願し、即位を決意させた。立后ののちは、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)を探して、昔の無礼を責め、姓を貶めて稲置(いなぎ)に改姓させた。また、皇后が雄略を出産する日に、允恭は皇后の妹衣通郎姫(そとおしのいらつめ)のもとに通っていたことが発覚した。そのため皇后は恨んで産殿に火をかけて死のうとしたので、允恭は皇后を慰撫したという。名代として刑部(おさかべ)を全国に定めたと伝える。なお、『古事記』には応神天皇と迦具漏比売(かぐろひめ)との子にも、忍坂大中比売がみえる。
[仁藤敦史]
『平野邦雄著『大化前代政治過程の研究』(1985・吉川弘文館)』