改訂新版 世界大百科事典 「藤原宮」の意味・わかりやすい解説
藤原宮 (ふじわらのみや)
日本古代の694年(持統8)から710年(和銅3)平城遷都までの16年間にわたる藤原京における宮城。その宮殿址は京域の中央北寄りの奈良県橿原市高殿町を中心とした地域にある。これまでの飛鳥の宮室は天皇の代替りごとに,あるいは一代に数度移るのがならわしであったが,藤原宮は持統,文武,元明の3代の天皇に継承された点に著しい特色をみる。藤原宮の時代は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令とそれに続く大宝律令が編纂・施行され,中央集権的な律令制古代国家が確立した重要な時期にあたり,律令制にもとづく政治機構の拡充によって,壮大な都城が必須のものとなった。藤原宮と京の造営は新しい政治体制を象徴し,恒久的な都城の完成を目ざしたものといえる。
宮跡の位置に関しては長い研究史がある。藤原宮は《万葉集》の〈藤原宮御井の歌〉によって,畝傍,耳成,香久の大和三山の間にあることが知られる。《扶桑略記》は高市郡鷺巣坂の地にありとし,《釈日本紀》に引く〈氏族略記〉には鷺巣坂の北にあると記す。賀茂真淵は《万葉考》の中で,現在の高殿町小字大宮に残る土壇(大宮殿)を宮跡とした。この説は明治以降,足立康らによって継承された。これに対して喜田貞吉は,現在の橿原市四分町にある鷺巣神社の北方で,醍醐町の長谷田土壇の地を宮跡の地とし,大論争が展開された。1934年12月から43年8月にかけて,日本古文化研究所(黒板勝美所長)が足立康を主任として高殿町一帯を発掘し,大宮土壇が藤原宮の大極殿の跡であること,その南で十二堂を配した朝堂院の全貌を明らかにする画期的な成果をあげ,藤原宮の所在地が確定した。古文化研究所による藤原宮の発掘は宮跡を計画的に,大規模に発掘した初例で,発掘史上大きな意義をもつ。
藤原宮,京の本格的造営は,690年10月の太政大臣高市皇子の〈藤原宮地〉の視察に始まる。翌年10月に京地の鎮祭が行われ,条坊街区の建設が開始された。藤原宮は京におくれて,692年5月に宮地を鎮祭して建設に着手し,2年余で結構が整い,694年12月に持統天皇は飛鳥浄御原宮から新宮に遷都する。だが藤原宮への遷都の決定は,《日本書紀》天武13年(684)3月条に〈天皇京師を巡行して,宮室の地を定めた〉とある時までさかのぼる。天武天皇の死と続く皇太子草壁皇子の死とによって,新都の造営は頓挫せざるをえなかったのであり,藤原宮への遷都は持統天皇にとっては亡夫の意図の実現であった。宮の造営事業は遷都後も続けられ,大宝律令施行にともなって造宮官の格付けや,殿舎の新営が行われた。喜田はこれを藤原宮の移転,足立は拡張ととらえたが,近年の発掘によって内裏や官衙の建物には2回ないし3回の造替が認められるから,先の記事は藤原宮の改造を示すものと解せられる。《日本書紀》にはこの宮の建物として内裏,南門,春宮,《続日本紀》には大極殿,朝堂,西殿,西高殿,西閣,西楼,東楼,大安殿,東安殿,新宮正殿,内殿,正門,重閤門,皇城門,海犬養門などの名称がみえる。
発掘調査による宮跡
発掘調査は1966年に,国道165号線バイパス建設計画に伴う事前調査として奈良県教育委員会によって再開され,68年までの間に内裏の東と北を画する回廊,宮の北,東,西の各辺を区画する大垣と濠とが検出され,宮の範囲が約1km四方であることが確定した。その後,発掘は奈良国立文化財研究所に引き継がれ,藤原宮の具体像が徐々に明らかにされてきている。
宮の四周は掘立柱,瓦葺きの大垣で囲まれ,その規模は東西約925m,南北約907mである。大垣の各辺には3門ずつ計12の宮城十二門がひらく。南,北,西の各面の中門と東面北門は発掘ずみで,いずれも正面5間25m,奥行2間10mで,礎石建ち,瓦葺きの大陸様式の建築であった。北面中門,東面北門の付近からは門号を記した木簡が出土しており,北面は西門,中門,東門をそれぞれ,海犬養門,猪使門,多治比門,東面は北から山部門,建部門,少子部門と呼んだことが知られる。大垣の外側約20mには,幅5.5m,深さ1.2mの素掘りの外濠がめぐる。排水が集中する西外濠は幅10mと他よりも一段と大規模につくられている。外濠と宮周辺の大路との間には幅30mを超す広大な空閑地(外周帯)をめぐらす。平城宮では大垣から宮周辺の大路までの壖地(ぜんち)の幅は10mほどだが,藤原宮では壖地,外濠,外周帯を合わせた幅は57mと実に5倍以上の広さである。しかし,この広大な空閑地の機能や性格はよくわかっていない。
宮の中央に位置を占める大極殿,朝堂,朝集殿は,宮殿建築としては日本最初の礎石建ち,瓦葺きの大陸様式の建築であった。大極殿は,間口7間とする従来の古文化研究所の発掘にもとづく説は誤りで,現在では9間と推定されている。大極殿院や朝堂院の規模は平城・平安等の以降の諸宮に比べて最大で,宮内での占める割合が大きく,それだけ八省百官の官衙の占める面積が狭くなる。大極殿院の北に接して内裏があり,これら中枢施設の東,西,北は官衙の地にあてられる。西方の官衙は間口が20間,18間(約50m)もの長大な掘立柱建物4棟をコの字形に整然と配置し,中央に広い空閑地を設ける。東方地域における官衙も間口が11間,12間の長大な掘立柱建物を整然と直線的に連ねる配置で,平城宮とは大きな相違がうかがわれる。平城宮とは異なった以上のような特色は,行政機構,官僚組織が平城宮の時代ほど整っていなかったことを示唆しよう。床張りの官衙建物が多いのも特色の一つである。
藤原宮跡では,宮造営前の7世紀後半期の掘立柱建物群や条坊道路遺構も各所で検出されている。条坊道路は藤原京の条坊と同一基準で設定されており,両者は互いに密接な関係にある。宮の中央では,宮中枢部へ造営資材を運ぶ幅7m,深さ2mの運河が発掘されている。宮に先行する条坊より新しく,大極殿や北面中門の造営時に埋め立てられている。溝内からは天武末年の年紀を記す木簡が出土しており,先行条坊の設定時期は天武末年以前までさかのぼる可能性がつよい。宮造営前の建物や先行条坊の性格については諸説があるが,天武紀にみえる〈倭京〉との関連の追究が今後の課題となろう。材木や礎石,屋瓦などの造営資材の調達と運搬は多大の労働力を要した。《万葉集》の〈藤原宮役民の作る歌〉によると,材木は琵琶湖岸などから宇治川,木津川の川伝いに運ばれており,最終的には先述の運河によって宮内に搬入された。宮の北方を流れる米川には自然の川を改修した形跡があり,造営資材の搬入,あるいは京内への物資の運搬に利用したと考えられる。
出土遺物は土器,瓦,木簡,木製品,陶硯,土馬など多数がある。宮の存続年代が短いから,藤原宮の遺物は編年,年代研究上,最も基準となる。また宮廷生活などを復原する上でも好資料である。ことに木簡は1984年までに外濠,内濠を中心に6500点近く出土しており,遺構の性格や年代決定の基準になるだけでなく,大宝律令施行以前の官司名や文書形式,租税制度,行政機構など古代史研究上の重要資料である。中でも,貢進物荷札木簡によって,大宝令以前は地方行政単位が〈郡〉字ではなく〈評〉字を使用していたことが確定し,いわゆる郡評論争に終止符を打ったことは有名である。大量に必要な屋瓦は,奈良県下に広く分散する藤原宮造営用の国営造瓦所で生産され,不足分は久米寺など古くからある寺院所属の造瓦所からも取りそろえられた。
→宮城 →藤原京
執筆者:木下 正史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報