大化改新以前,倭(やまと)王権が置いた地方官職。《日本書紀》成務5年条に〈諸国に令(みことのり)して国郡に造長を立て,県邑に稲置を置く〉という表現がみられ,一方《隋書》東夷伝倭国条の〈軍尼(くに)一百二十人有り,猶中国の牧宰のごとし,八十戸一伊尼翼(冀)を置く,今の里長の如きなり,十伊尼翼一軍尼に属す〉の記事から,クニ(国造(くにのみやつこ))-イナギ(稲置)の上下の統属関係を推定されることがある。さらに国造下で田部を編成した屯倉(みやけ)における在地の管掌者とする説があり,やがて屯倉周辺の村落を行政区画とした県(こおり)の稲置に転じたという。しかし稲置の分布は畿内とその周辺に限られ,律令時代皇室領の経営にあたった主稲・湯沐令(ゆのうながし)などの徴税官との職掌上の共通性がつよい。《日本書紀》大化元年(645)8月条の〈県稲置〉は,県(あがた)内の屯倉の管理者として解釈できる。大化後,稲置本来の役割を失って,684年(天武13)の八色の姓(やくさのかばね)では最下位の姓に転じ,さらに因支首(おびと)・稲置代(しろ)首のように氏(うじ)名化するにいたった。
→県(あがた) →県主(あがたぬし)
執筆者:八木 充
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大和(やまと)朝廷の地方官職名。のちに姓(かばね)となった。稲置は、屯田(みた)、屯倉(みやけ)などの皇室領の管理者ないしは徴税官の官職名であるとする説、国の下級組織の県(あがた)あるいは評(こおり)の長の官職名であるとする説に分かれているが、いずれにしても皇室の家政機関である内廷と関係の深いものであった。稲置の分布は畿内(きない)とその周辺に限られ、その支配領域は律令(りつりょう)制下の郷(ごう)程度の狭いものである。684年(天武天皇13)の八色(やくさ)の姓の制定に際し、第八位の姓として位置づけられた。
[前之園亮一]
『上田正昭著『県主と祭祀団』(『日本古代国家成立史の研究』所収・1969・青木書店)』▽『井上光貞著『国造制の成立』(『大化改新』所収・1970・弘文堂)』
古代の官職名あるいはカバネ。「日本書紀」成務紀にみえ,645年(大化元)8月の東国国司への詔にも「県稲置(あがたのいなぎ)」が現れ,国造より下位の地方豪族がつく職名とみられる。「隋書」倭国伝の「伊尼冀(いなぎ)」をあてる説もある。一方,允恭紀2年条には闘鶏(つげ)国造の姓(かばね)を稲置に貶(おと)すともあり,某稲置を名のる豪族の実例から,カバネの一つとも考えられる。684年(天武13)制定の八色(やくさ)の姓の最下位にもみえている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…古くは統率者をあらわす称呼であったものが姓となる。主として地方の県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ),および部民(べみん)の統率者,または屯倉(みやけ)の管理者に与えられた。県主の例として志紀県主の志紀首,稲置の例として伊賀の稲置代首,部民の統率者の例として赤染部の統率氏族の赤染部首,そして屯倉の管理者の例として新家屯倉の新家首にみられる。…
…天武の新姓ともいう。《日本書紀》天武13年10月条に〈諸氏の族姓(かばね)を改めて,八色の姓を作りて,天下の万姓を混(まろか)す〉とあり,真人(まひと),朝臣(あそん∥あそみ),宿禰(すくね),忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),稲置(いなぎ)の8種類があげられている。第1の真人は,主として継体天皇以降の天皇の近親で,従来,公(君)(きみ)の姓を称していたものに授けられた。…
※「稲置」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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