蓮沼村(読み)はすぬまむら

日本歴史地名大系 「蓮沼村」の解説

蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]蓮沼村イ・ロ・ハ・ニ

現蓮沼村域の大部分を占め、栗山くりやま川は浜方を並行して流れ、南東の平野ひらの新田の南で木戸きど川を合せて海に注いでいる。おもな集落は汀線に並行する二筋の道沿いに営まれ、北西部に竜立りゆうだち沼があった(明治一〇年代二万分一迅速測図)。日光輪王りんのう寺蔵の八帖抄見聞事奥書に武射むしや郡蓮沼とみえ、貞治六年(一三六七)九月一八日より二七日まで当地の一室で口筆が行われた。中根なかね地区からは戦国期とみられる五輪塔が出土している。

天正一八年(一五九〇)の諸大名旗本分限帳(内閣文庫)に相模・武蔵両国内と上総蓮沼の計五千石が高木清秀の所領としてみえる。翌一九年検地が行われ、蓮沼村郷中鏡(石橋家文書)では高一千四二七石余・一二八町余、本郷一千一八〇石余と南里みなみざと(のちの南蓮沼村)二九二石余に分れていた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千五四五石。寛永元年(一六二四)新田八四石余が幕府領として高入れされ、同二年には本田高一千四七〇石余・一二一町余が旗本松平・鳥居・榊原三氏に与えられた(蓮沼村郷中鏡)。このとき北郷きたのごうなどの蓮沼四郷の称が生じたという。正保二年(一六四五)の成箇郷帳并浮役勘定目録(渡辺家文書)によると幕府領の取米六石余、うち米四石余・永七五〇文、ほかに浮役一貫八〇〇文と塩二〇〇俵を納入している。正保国絵図では高一千五〇〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では木戸組に属し、幕府領八七四石余・鳥居領五〇〇石・榊原領一八〇石。元禄郷帳では北蓮沼村一千一九一石余・南蓮沼村(古くは南里村)二六〇石余・南蓮沼村新田七一七石余の三村に分けて記されている。元禄一六年(一七〇三)には旗本山内領があり(楽只堂年録)、宝永元年(一七〇四)には旗本美濃部・山内両氏の相給。享保六年(一七二一)の村明細帳(川島家文書)によると幕府領一千二一一石余のほか旗本小長谷領一一〇石・鳥居領五〇〇石・榊原領二〇〇石・榊原領八〇石・川井領六九石。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]小矢部市蓮沼

埴生はにゆう村の南東、渋江しぶえ川左岸平地に位置し、同川支流のせき川が流れる。南の道林寺どうりんじ村の西および渋江川の右岸にも飛地がある。中世には松永まつなが庄に含まれた。加賀と越中を結ぶ倶利伽羅くりから峠の東麓にあり、しかも渋江川―小矢部川の舟運を通じ日本海とも結ばれる水陸交通の要衝であったことから、室町時代には越中守護代遊佐氏一族(小守護代)が館(蓮沼城)を築き、城下は「蓮沼六千軒」と称されるほど繁栄していたと伝える(越中志徴)。ただし当時の蓮沼は近世の道林寺村と四日町よつかまち村・ちよう村をも含んでいたと考えられる。

時衆過去帳(清浄光寺蔵)には、第一五代尊恵(在位一四一七―二九)に結縁した遊佐新左衛門・同二良殿をはじめ、歴代の結縁者中に遊佐一族が頻出する。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]板橋区蓮沼町・坂下さかした一―三丁目・東坂下ひがしさかした一―二丁目・舟渡ふなど一―四丁目・蓮根はすね一―三丁目

前野まえの村の北東に位置し、中山道が村の中ほどを通る。道生どうじよう沼・うしろ沼は村との入会で、用水は前野・中台なかだい両村から出る清水を引く。蘿蔔に適した土性(風土記稿)。「風土記稿」によると、中世には志村しむら庄に属するというが詳細は不詳。同書は新井三郎盛久などが戦乱を避けて土着し、開発したとする。文安五年(一四四八)一一月日の熊野神領豊島年貢目録(熊野那智大社文書)には、「五百文 蓮沼十郎三郎」とあり、蓮沼は熊野領として、年貢を蓮沼十郎三郎が負担していた。天正一八年(一五九〇)より旗本小泉吉次・吉勝親子が二代にわたり一部を知行するが、寛永六年(一六二九)に幕府領となり、また天正一九年より慶長一五年(一六一〇)まで旗本太田重正が五〇〇石を知行したが、のち幕府領となる(譜牒余録・寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]大宮市蓮沼

門前もんぜん村の西に位置する。大部分が大和田片柳おおわだかたやなぎ支台上にあるが、南東部は大谷おおや村に続く悪水路に沿った低地となっている。村の中央を東西に岩槻町と大宮町を結ぶ道が通る。寛永(一六二四―四四)の頃から南部を蓮沼村、北部をさる谷戸やと村と称したと伝えるが(郡村誌)、田園簿・元禄郷帳では蓮沼村とある。天保郷帳では猿ヶ谷戸村とあり、「古者蓮沼村」と注記される。しかし「風土記稿」や幕末の改革組合取調書では蓮沼村とあり、「風土記稿」は同村の小名として猿ヶ谷戸を載せ、「別村ノ如クニ呼フ」と記す。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]深谷市蓮沼

小山こやま川と丈方じようほう(福川)の間の沖積低地に位置し、東は堀米ほりごめ村、北は石塚いしづか村。村内を備前渠びぜんきよ用水が東流する。深谷領に所属し、かつては堀米村江原えばら村を含んでいたという(風土記稿)。猪俣党蓮沼氏(荷沼氏とも記す)の名字の地とされ、地内にその居館跡が残る。猪俣党系図(諸家系図纂)によると、岡部国綱の子国家が蓮沼六郎を称している。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条によれば、源頼朝上洛に際し荷沼三郎が後陣随兵として従っている。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]杉戸町北蓮沼きたはすぬま

堤根つつみね村の東、大塚おおつか村の北に位置し、東は庄内古しようないふる川が流れ、大塚村境を関宿せきやど往還が通る。田園簿に蓮沼新田とみえ、田高二九〇石余・畑高五〇石余で、幕府領。元禄・天保両郷帳では蓮沼村二一四石余と別に枝郷として寄合よりあい新田五九石余・照市てるいち新田五七石余を載せているが、「風土記稿」によると当時の村民は村の小名とみなしており、旗本松下領で家数は二八。日光道中の往還通掃除町場は小淵こぶち(現春日部市)地内一〇二間で(宿村大概帳)、杉戸宿の助郷村であった(享保八年「杉戸町助郷帳」長瀬家文書)


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]木造町 あけぼのの一部

北は上木作かみきつくり村、西は木作きつくり村に続き、田圃を隔てて南に桃井もものい(現柏村)、東に末吉すえよし(現柏村)

天保一三年(一八四二)蓮花田れんげた村の小山内家由緒書(津軽新田開発者の系譜)によれば、二代目作右衛門清光が延宝五年(一六七七)自費で蓮沼村を開き、家数九とある。享保一二年(一七二七)広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二五町五反六畝一九歩、村高一七四・二八四石であった。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]三郷市南蓮沼みなみはすぬま・さつきだいら一丁目

大広戸おおひろと村の西に位置する。幸房こうぼう用水が流れ、平沼ひらぬま(現吉川町)から下総国流山に通じる道が通る。古来蓮が多く生えていた沼を開いたことから蓮沼新田と称し、のちに村と改めたという(風土記稿)。田園簿に記載がなく、元禄郷帳に村名がみえ高一五二石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(「風土記稿」・改革組合取調書など)


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]大田区東矢口ひがしやぐち一丁目・西蒲田にしかまた二―三丁目・同六丁目

小林こばやし村の北に位置する。多摩川がかつては近くを流れていたという低地の村。木舟きぶねという昔の渡しの名といわれる字が残る。北条氏所領役帳によれば、江戸衆の鴇田新三郎が「六郷内 蓮沼」に役高二五貫八五〇文の所領をもっていた。田園簿に村名がみえ、田方一九六石余・畑方三三石余、幕府領。元禄郷帳では高二二九石余。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]協和町蓮沼

東は門井かどい村、西は向川澄むこうかわすみ村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高四百十六石五斗弐升 此内十九石六斗五升 荒 定物成六十貫文 真壁預りはす沼」とあり、佐竹氏領であった。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は五四九石余であるが、天保郷帳は七七一石余に増加する。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]川口市本蓮ほんぱす一―二丁目・蓮沼・東本郷ひがしほんごう一丁目

周囲を本郷村に囲まれる。集落は毛長けなが堀付近にあったが、溢水のたびに水難に見舞われたため移転したと伝える(風土記稿)。田園簿では田七七石余・畑三〇石余で幕府領。一時期江戸上野東叡山寛永寺領になったというが(風土記稿)、国立史料館本元禄郷帳、幕末の改革組合取調書などはいずれも幕府領となっている。


蓮沼村
はすぬまむら

[現在地名]大穂町蓮沼

大曾根おおぞね村の南西に所在。元和八年(一六二二)大名堀利重領となり、延宝七年(一六七九)に堀氏が旗本となって後も、堀氏本家領として廃藩置県に及んだ。嘉永四年(一八五一)の組合村六拾弐ケ村石高付留(大里正夫文書)では村高一七五・三一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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