小豆沢村(読み)あずきざわむら

日本歴史地名大系 「小豆沢村」の解説

小豆沢村
あずきざわむら

[現在地名]宮川村小豆沢

宮川左岸にあり、南は杉原すぎはら村、南東対岸鮎飛あゆとび村。北東は越中国婦負ねい蟹寺かんてら(現富山県婦負郡細入村)。飛越国境は唐堀からほり山の尾根で、その稜線の一つが川に落ちる地点に境の石垣があった。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳に「あつきさわ村」とあり、小鷹利こたかり郷に属し、高七石余。元禄検地(宮川村文書)では高八石余、畑のみ三町一反余。ほかに焼畑一町三反余、名請人一二人、屋敷持一三人、口留番所敷一畝余。耕地・高に比して家数が多く、大半は杉原村へ出作りしていた。「飛騨国中案内」では免二割二分二厘余、家数一六(うち百姓一四・門屋二)

小豆沢村
あずさわむら

[現在地名]板橋区小豆沢一―四丁目・志村しむら一丁目・東坂下ひがしさかした一丁目

蓮沼はすぬま村の北に位置し、北を荒川が限る。村内を中山道が通る。当村の龍福りゆうふく寺薬師の縁起によると、かつて荒川の入江の傍らに七々子ななこ崎という湊があり、平将門が東国を押領していた頃に貢ぎ物の小豆を積んだ船がこの入江に沈んだのが村名の由来という(風土記稿)。文禄元年(一五九二)以後領主の変遷は前野まえの村と同じ。田園簿では田方三九石余・畑方六五石余、旗本高田領、ほかに永三貫七四九文の野銭を幕府に納める。元禄郷帳では高一一四石余。延宝二年(一六七四)持添新田の検地を野村彦太夫が行い、幕府領としたという。

小豆沢村
あずきざわむら

[現在地名]鹿角市八幡平はちまんたい 小豆沢

峡谷を流れ出た米代川が北に向きを変える辺りに位置し、対岸は川部かわべ村。鹿角街道が通る。

南部家系譜文明一八年(一四八六)の項に「奥州鹿角郡小豆沢郷」、近世初期の「鹿角郡由来記」に「小豆沢村 小豆沢駿河領知 本名秋元也 館有」とある。集落北側に連郭性城館跡があり、台地先端を利用し、自然の沢状地形を改良して郭状平坦面を構築、杉館すぎたて下館しもたて新座館しんざたてなどの名称を残す。

小豆沢村
あずきさわむら

[現在地名]平内町小豆沢

東は盛田もりた村、南は盛田川で山口やまぐち村、西は中野なかの村、北は一帯に山地で遥かに田沢たざわ村の支村野内畑のないはた村に接する。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「小豆沢」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高二〇七・〇四石とあり、元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)には村高二三七・七五九石、うち田方二二四・七二七石、畑方九・五五六石、屋敷方三・四七六石とある。

小豆沢村
あずきざわむら

[現在地名]金沢市小豆沢町

俵等たわら村の南東に位置。「白山之記」に「又有一社、名境明神、小豆沢平岩」とみえる。「天文日記」天文七年(一五三八)九月九日条によれば、室町幕府政所執事伊勢兵庫助貞孝が幕府料所六ヵ村「長嶋宮武、野田、高畠、藤六、小豆沢」の知行の保証を本願寺証如に求めている。同九年一一月、本願寺内衆下間光頼が幕府料所六ヵ村や森島もりじま(現鶴来町)代官に補任されており、翌一〇年三月には毎年三五貫文を納めることを約している(「伊勢貞孝代官職補任状案」蜷川家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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