忻都(読み)キント

デジタル大辞泉 「忻都」の意味・読み・例文・類語

きんと【忻都】

中国武将。13世紀、文永弘安の役のとき、元軍を率いて日本に来襲した。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「忻都」の意味・わかりやすい解説

忻都 (きんと)

元のモンゴル人武将。生没年不詳。1271年,元が日本遠征のために高麗各地に設置した屯田軍を管領する鳳州経略使として高麗に来た彼は,以後洪茶丘とともに遠征の準備と実行に当たった。まず,高麗と協力して三別抄の乱を鎮圧し,74年日本征討(または征東)都元帥として,高麗から日本を攻め,失敗した。次いで,81年征東行省右丞として,高麗からの東路軍を率いて日本を攻め,再度失敗し,同年高麗を経て帰国した。
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朝日日本歴史人物事典 「忻都」の解説

忻都

生年:生没年不詳
中国元代の武将,文永・弘安の役の指揮官。中国語読み「チントゥ」。モンゴル人。文永11(1274)年,日本征討都元帥(総司令官)として,洪茶丘の補佐を受け元軍2万8000人(うち高麗軍8000人),戦艦900艘を率いて,対馬佐須浦(小茂田浦),壱岐,博多に侵攻するも失敗(文永の役)。弘安3(1280)年に洪茶丘と日本再征を提案し,翌年,征東元帥として,高麗から東路軍4万人(うち高麗軍1万人)を率いて,対馬,壱岐,博多に進軍した。阿塔海率いる江南軍10万人と合流して太宰府攻撃しようとするが,暴風雨に遭い,船体は転覆して,辛くも帰国した(弘安の役)。元寇時の元・高麗軍の最高司令官であるが,結局失敗に終わる。<参考文献>山口修蒙古襲来』,旗田巍『元寇』

(関周一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「忻都」の解説

忻都 きんと

?-? 元(中国)のモンゴル人武将。
日本征討都元帥となり,文永11年(1274)洪茶丘(こう-さきゅう)の補佐をうけ,元・高麗(こうらい)連合軍2万8000人,船900隻をひきいて博多をおそうが,暴風で退却(文永の役)。弘安(こうあん)4年(1281)には征東元帥として軍4万人,船400隻で北九州に侵攻,大宰府(だざいふ)攻撃をはかるが,ふたたび暴風にあい,かろうじて生還した(弘安の役)。

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世界大百科事典(旧版)内の忻都の言及

【元】より

…74年(文永11)正月,元は高麗に大規模な造船命令を下し,2万8000の軍兵と900艘の艦船が準備された。同年10月3日,忻都,洪茶丘らに率いられた元・高麗の連合軍は合浦を出発し,日本を襲い,博多湾岸で激しい戦闘が展開されたが,勝敗が決しないまま,10月21日,元軍は博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。 鎌倉幕府は元の再襲に備えて異国警固番役を設け,石築地(いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。…

※「忻都」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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