文永の役(読み)ブンエイノエキ

デジタル大辞泉 「文永の役」の意味・読み・例文・類語

ぶんえい‐の‐えき【文永の役】

文永11年(1274)中国げん大軍来攻したときの戦い。元軍は対馬つしま壱岐いき、次いで博多付近に上陸したが、暴風雨によって引き上げた。元寇げんこう。→弘安こうあんえき

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精選版 日本国語大辞典 「文永の役」の意味・読み・例文・類語

ぶんえい【文永】 の 役(えき)

  1. 鎌倉時代、文永一一年(一二七四)、来攻した蒙古(元)との一度目の戦い。高麗服属させた蒙古は文永三年以来六回にわたって日本の服属を求めたが、執権北条時宗を中心とする鎌倉幕府はこれを拒んだ。文永一一年一〇月、蒙古・高麗の連合軍(二万八千の軍兵と九〇〇艘の船艦)は対馬に上陸、さらに二〇日、博多湾に上陸して合戦し、いったん船に引きあげ、翌二一日姿を消した。直接の原因は前夜の大風雨によるといわれる。弘安四年(一二八一)の来攻と合わせて、元寇または蒙古襲来ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「文永の役」の解説

文永の役
ぶんえいのえき

1274年(文永11)のモンゴル(元)・高麗(こうらい)軍による日本侵攻。高麗を征服したモンゴル(71年から国号は大元)のフビライは,1268年(文永5)以降6回にわたり,モンゴル・高麗の使者を日本に派遣し服属を要求したが,鎌倉幕府はこれを拒絶。73年,元は南宋を攻め,さらに3年間抗戦した高麗江華島(現,京畿道)守護軍の三別抄(さんべつしょう)を平定し,日本遠征の準備を開始。74年1月,元は高麗に900隻の造船命令を出し,突貫工事で造船を急がせた。都元帥忻都(きんと)・右副元帥洪茶丘(こうさきゅう)がモンゴル人・女真(じょしん)人および金の治下にあった漢人ら軍兵2万人を,金方慶が高麗の助征軍8000人を指揮し,総勢2万8000人の軍兵が10月3日,高麗の合浦(がっぽ)を出発。10月5日対馬に上陸し,地頭代宗資国(そうすけくに)らが戦死。14日壱岐を襲撃し,守護代平景隆らが戦死。20日博多湾西部の今津・百道原(ももちばる)(現,福岡市)に上陸し,激戦を展開。元側の兵器や集団戦法に日本軍は苦戦し,大宰府へ退却。元・高麗軍は博多湾上の船に撤退するが,夜半の暴風雨のため退却。元の遠征が失敗した理由は,混成軍による指揮官間の確執,兵士の士気の低さ,劣悪な造船条件などがあげられる。役後,幕府は戦闘に参加した武士に恩賞を与え,元軍の再来に備えて異国警固番役の制を定めた。博多湾に石築地(いしついじ)の防塁を築造し,異国征伐も計画。一方フビライは再度日本を侵攻し,弘安の役となる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文永の役」の意味・わかりやすい解説

文永の役
ぶんえいのえき

元寇

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旺文社日本史事典 三訂版 「文永の役」の解説

文永の役
ぶんえいのえき

1274(文永11)年10月におこった元の日本来襲事件。

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