改訂新版 世界大百科事典 「洪茶丘」の意味・わかりやすい解説
洪茶丘 (こうちゃきゅう)
Hong Ta-gu
生没年:1244-91
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、元(げん)の部将。名は俊奇(しゅんき)。茶丘は小字(しょうじ)(幼時の字(あざな))。モンゴル(元)に降伏した高麗(こうらい)の武将洪福源(こうふくげん)の第2子。世祖フビライの寵(ちょう)を受け、1263年管領帰付高麗軍民総管(かんりょうきふこうらいぐんみんそうかん)となり、元の高麗経略に従事した。74年の日本遠征には東征右副都元帥(とうせいうふくとげんすい)として、忻都(きんと)らと水軍2万を率いて対馬(つしま)・壱岐(いき)などを攻撃した(文永(ぶんえい)の役)。80年征東行省右丞(せいとうこうしょううじょう)となり、翌年水軍4万を率いて高麗の合浦(がっぽ)からふたたび日本に向かい、江南軍10万とともに北九州地方を攻めたが、暴風にあって敗退した(弘安(こうあん)の役)。その後、元朝の内乱平定に功をあげたが病死した。
[石井正敏]
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…74年(文永11)正月,元は高麗に大規模な造船命令を下し,2万8000の軍兵と900艘の艦船が準備された。同年10月3日,忻都,洪茶丘らに率いられた元・高麗の連合軍は合浦を出発し,日本を襲い,博多湾岸で激しい戦闘が展開されたが,勝敗が決しないまま,10月21日,元軍は博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。 鎌倉幕府は元の再襲に備えて異国警固番役を設け,石築地(いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。…
※「洪茶丘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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