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洪茶丘 こうちゃきゅうHong Cha-qiu; Hung Ch`a-ch`iu

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

洪茶丘
こうちゃきゅう
Hong Cha-qiu; Hung Ch`a-ch`iu

[生]脱列哥那3(1244)
[没]至元28(1291)
中国,の武将。名は俊奇,茶丘は小字。高麗の人。先祖は中国人。至元6 (1269) 年父の職,管領帰付高麗軍民総管を継ぐ。同年属国高麗の林衍 (りんえん) の乱を平定,同8~10年その余党や三別抄軍 (→三別抄の乱 ) を討滅,高麗を完全に服属化した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

洪茶丘 こう-さきゅう

1244-1291 元(げん)(中国)の武将。
高麗(こうらい)(朝鮮)の高宗31年生まれ。高麗出身で元に帰属した父洪福源の跡をつぎ,管領帰付高麗軍民総管として高麗経営につくす。文永11年(1274)水軍2万をひきいて対馬(つしま),壱岐(いき)などをおそい,弘安(こうあん)4年にも水軍4万の東路軍で博多に上陸しようとしたが,2度とも暴風雨にあい,ひきあげた(文永・弘安の役)。元の至元28年死去。48歳。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

洪茶丘

没年:至元28(1291)
生年:乃馬真后3(1244)
中国元代の武将。モンゴルに投降した高麗の武将洪福原の子。フビライに重用され,高麗経営に活躍し,三別抄(高麗で組織された反モンゴルの軍隊)の乱などを鎮圧。文永11(1274)年,東征軍の副元帥として,忻都を補佐して元軍を指揮し,北九州に遠征するも失敗(文永の役)。弘安3(1280)年日本再征を忻都と提案し,翌年日本行省右丞として高麗から東路軍を率い,再び日本に進軍。江南軍と合流して太宰府を攻撃しようとするが,失敗する(弘安の役)。その後,満州(中国東北部)方面の諸王の反乱征討に当たる。高麗の内政に干渉し,国王,功臣を圧迫し,武将金方慶を一時期失脚させる。祖国高麗の弱体化・隷属化に尽力した。<参考文献>山口修『蒙古襲来』,旗田巍『元寇』

(関周一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

こうちゃきゅう【洪茶丘 Hong Ta‐gu】

1244‐91
朝鮮,高麗出身の元の武将。諱(いみな)は俊奇。茶丘は年少時の字。1233年高麗に背いて,蒙古に逃れ,以後遼陽・瀋陽方面の高麗人亡命者を統轄していた父洪福源の横死後,1261年その任を継いだ。林衍(りんえん)の乱,三別抄の乱など高麗内の反元的動きの鎮定,高麗での元の日本侵略準備の監督と2回の遠征の指揮,乃顔・哈丹等満州方面の諸王の反乱討伐などに当たり,元の東方経略に重要な役割を果たし,遼陽行省右丞に至った。

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世界大百科事典内の洪茶丘の言及

【元】より

…74年(文永11)正月,元は高麗に大規模な造船命令を下し,2万8000の軍兵と900艘の艦船が準備された。同年10月3日,忻都,洪茶丘らに率いられた元・高麗の連合軍は合浦を出発し,日本を襲い,博多湾岸で激しい戦闘が展開されたが,勝敗が決しないまま,10月21日,元軍は博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。 鎌倉幕府は元の再襲に備えて異国警固番役を設け,石築地(いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。…

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