洪茶丘(読み)こうちゃきゅう(英語表記)Hong Ta-gu

改訂新版 世界大百科事典 「洪茶丘」の意味・わかりやすい解説

洪茶丘 (こうちゃきゅう)
Hong Ta-gu
生没年:1244-91

朝鮮高麗出身の元の武将。諱(いみな)は俊奇。茶丘は年少時の字。1233年高麗に背いて,蒙古に逃れ,以後遼陽・瀋陽方面の高麗人亡命者を統轄していた父洪福源の横死後,1261年その任を継いだ。林衍(りんえん)の乱,三別抄の乱など高麗内の反元的動きの鎮定,高麗での元の日本侵略準備の監督と2回の遠征指揮,乃顔・哈丹等満州方面の諸王の反乱討伐などに当たり,元の東方経略に重要な役割を果たし,遼陽行省右丞に至った。父の死に関連して,高麗を深く恨み,常にこれを陥れようと謀り,苦しめた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洪茶丘」の意味・わかりやすい解説

洪茶丘(こうちゃきゅう)
こうちゃきゅう
(1244―1291)

中国、元(げん)の部将。名は俊奇(しゅんき)。茶丘は小字(しょうじ)(幼時の字(あざな))。モンゴル(元)に降伏した高麗(こうらい)の武将洪福源(こうふくげん)の第2子。世祖フビライの寵(ちょう)を受け、1263年管領帰付高麗軍民総管(かんりょうきふこうらいぐんみんそうかん)となり、元の高麗経略に従事した。74年の日本遠征には東征右副都元帥(とうせいうふくとげんすい)として、忻都(きんと)らと水軍2万を率いて対馬(つしま)・壱岐(いき)などを攻撃した(文永(ぶんえい)の役)。80年征東行省右丞(せいとうこうしょううじょう)となり、翌年水軍4万を率いて高麗の合浦(がっぽ)からふたたび日本に向かい、江南軍10万とともに北九州地方を攻めたが、暴風にあって敗退した(弘安(こうあん)の役)。その後、元朝の内乱平定に功をあげたが病死した。

石井正敏


洪茶丘(こうさきゅう)
こうさきゅう

洪茶丘

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朝日日本歴史人物事典 「洪茶丘」の解説

洪茶丘

没年:至元28(1291)
生年:乃馬真后3(1244)
中国元代の武将。モンゴルに投降した高麗の武将洪福原の子。フビライに重用され,高麗経営に活躍し,三別抄(高麗で組織された反モンゴルの軍隊)の乱などを鎮圧。文永11(1274)年,東征軍の副元帥として,忻都を補佐して元軍を指揮し,北九州に遠征するも失敗(文永の役)。弘安3(1280)年日本再征を忻都と提案し,翌年日本行省右丞として高麗から東路軍を率い,再び日本に進軍。江南軍と合流して太宰府を攻撃しようとするが,失敗する(弘安の役)。その後,満州(中国東北部)方面の諸王の反乱征討に当たる。高麗の内政に干渉し,国王,功臣を圧迫し,武将金方慶を一時期失脚させる。祖国高麗の弱体化・隷属化に尽力した。<参考文献>山口修『蒙古襲来』,旗田巍『元寇』

(関周一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洪茶丘」の意味・わかりやすい解説

洪茶丘
こうちゃきゅう
Hong Cha-qiu; Hung Ch`a-ch`iu

[生]脱列哥那3(1244)
[没]至元28(1291)
中国,の武将。名は俊奇,茶丘は小字。高麗の人。先祖は中国人。至元6 (1269) 年父の職,管領帰付高麗軍民総管を継ぐ。同年属国高麗の林衍 (りんえん) の乱を平定,同8~10年その余党や三別抄軍 (→三別抄の乱 ) を討滅,高麗を完全に服属化した。同 11年東征右副都元帥,同 18年征東行省右丞として高麗の民を駆使し,日本征討を指揮。同 24年ナヤン (乃顔)の乱に対する親征に従い勲功を立て,遼陽等処行尚書省右丞を拝命。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「洪茶丘」の解説

洪茶丘 こう-さきゅう

1244-1291 元(げん)(中国)の武将。
高麗(こうらい)(朝鮮)の高宗31年生まれ。高麗出身で元に帰属した父洪福源の跡をつぎ,管領帰付高麗軍民総管として高麗経営につくす。文永11年(1274)水軍2万をひきいて対馬(つしま),壱岐(いき)などをおそい,弘安(こうあん)4年にも水軍4万の東路軍で博多に上陸しようとしたが,2度とも暴風雨にあい,ひきあげた(文永・弘安の役)。元の至元28年死去。48歳。

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世界大百科事典(旧版)内の洪茶丘の言及

【元】より

…74年(文永11)正月,元は高麗に大規模な造船命令を下し,2万8000の軍兵と900艘の艦船が準備された。同年10月3日,忻都,洪茶丘らに率いられた元・高麗の連合軍は合浦を出発し,日本を襲い,博多湾岸で激しい戦闘が展開されたが,勝敗が決しないまま,10月21日,元軍は博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。 鎌倉幕府は元の再襲に備えて異国警固番役を設け,石築地(いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。…

※「洪茶丘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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