怡土城跡(読み)いとじようあと

日本歴史地名大系 「怡土城跡」の解説

怡土城跡
いとじようあと

[現在地名]前原市高祖など

前原市と福岡市の境、高祖たかす(四一六・一メートル)の西斜面一帯に築かれた古代山城。郭内面積約二八〇ヘクタール。国指定史跡。当城は築城の開始から完成までを記録によって追うことができる。「続日本紀」天平勝宝八歳(七五六)六月二二日条に「怡土城」とみえ、大宰大弐吉備真備を専当官として築城が開始された。天平宝字八年(七六四)吉備真備は造東大寺司長官に任じられ帰京するが(同書同年正月二一日条など)、同書天平神護元年(七六五)三月一〇日条によると同じく大宰大弐であった佐伯今毛人が「築怡土城専知官」となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「怡土城跡」の解説

いとじょうあと【怡土城跡】


福岡県糸島市高祖・大門・高来寺にある城跡。福岡市との境にそびえる高祖山(たかすやま)の西斜面に築かれ、遺構としては、尾根線上に8ヵ所の望楼(物見やぐら)跡があり、山裾には南北約2kmにわたって土塁が走り、土塁の外側には幅約15mの濠があったことが判明している。1938年(昭和13)に国の史跡に指定され、2007年(平成19)に追加指定を受けた。この城は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に、遣唐使として2度も中国に渡った吉備真備(きびのまきび)が、756年(天平勝宝8)に築城を開始し、築城に際しては防人(さきもり)まで動員したと書かれている。築城の目的は、8世紀中ごろの新羅(しらぎ)征討のためとする説と、755年(天平勝宝7)に勃発した唐の安禄山(あんろくざん)の乱に備えるためと考える説がある。その後、中世(戦国時代)に糸島を支配した原田氏は、この場所を再利用して高祖城を築き、1587年(天正15年)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点とした。JR筑肥線周船寺駅からコミュニティバス「雷山の森」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報