大野城(読み)オオノジョウ

デジタル大辞泉 「大野城」の意味・読み・例文・類語

おおのじょう【大野城】[地名]

福岡県中西部の市。福岡市に隣接し、住宅地水城みずき跡・大野城跡がある。人口9.5万(2010)。

おおの‐じょう〔おほのジヤウ〕【大野城】

福岡県粕屋郡宇美町・太宰府市大野城市にまたがる古代の山城。天智4年(665)大宰府の防衛のためにつくられた。

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精選版 日本国語大辞典 「大野城」の意味・読み・例文・類語

おおの‐じょうおほのジャウ【大野城】

  1. [ 一 ] 福岡県太宰府市・宇美町・大野城市にまたがる朝鮮式山城。天智天皇四年(六六五)渡来人により築城。高さ四一〇メートルの四王寺山(大野山)の山頂部の尾根伝いに周囲約六キロメートルの土塁、石垣を築く。城門、倉庫などの礎石、敷石が残存。おおののき。
  2. [ 二 ] 福岡県中西部の地名。福岡平野南部に位置し、第二次大戦前は純農村地帯。戦後住宅団地が建設され、福岡市の衛星都市として発展。北東部に国特別史跡大野城跡がある。昭和四七年(一九七二)市制。
  3. [ 三 ] 和歌山県海南市の藤白山にあった城。建武年間(一三三四‐三六)浅間入道寛心が在城した記録があり、続いて細川、山名、大内、畠山氏が領有。天正年間(一五七三‐九二)廃城。
  4. [ 四 ] 福井県大野市亀山にあった城。天正四年(一五七六)金森長近が築城を始め、織田・結城氏らを経て土井氏が領有。安永四年(一七七五)の大火で全焼。昭和四三年(一九六八天守閣を復興。
  5. [ 五 ] 愛知県愛西市にあった城。天正一二年(一五八四)小牧・長久手の戦いで蟹江合戦の場となった。

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日本の城がわかる事典 「大野城」の解説

おおのじょう【大野城〈福井県〉】

福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。

おおのじょう【大野城〈福岡県〉】

福岡県太宰府市、糟谷郡宇美(うみ)町、大野城市にまたがって築かれた古代山城(さんじょう)(朝鮮式山城)。飛鳥時代に築城されたもので、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定された。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。城域は大宰府(だざいふ)の北方、標高約410mを最高峰とする四王寺(しおうじ)山一帯。四王寺山には、尾根つたいに延々8km以上に及ぶ土塁がめぐらされ、谷側には石垣が築かれている。北方に1ヵ所、西南に1ヵ所、南部に2ヵ所城門がある。本城は、大宰府北方という立地から、大宰府の防衛を目的とした城であると考えられている。西鉄太宰府線太宰府駅から県民の森センターまで車で約15分、徒歩約50分。JR香椎線宇美駅から車で約15分。九州自動車道太宰府ICから約6km。

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改訂新版 世界大百科事典 「大野城」の意味・わかりやすい解説

大野城 (おおのじょう)

福岡県太宰府市と糟屋郡宇美町にまたがる通称四王寺山にある古代の朝鮮式山城。7世紀代における朝鮮半島の軍事的緊張のなかで,660年の百済滅亡と,それに続く663年の白村江における日本援軍の敗戦を背景として築造された。《日本書紀》によると天智天皇4年(665)の条に〈憶礼福留と四比福夫を筑紫国に遣わして大野城と椽(き)城(基肄(きい)城)を築いた〉とあり,水城(みずき)とともに大宰府の防衛網を形成した。遺跡は標高410mを最高所とし,北側に大きな谷を取りこんだ馬蹄形の尾根上に延長約6kmにわたって土塁がめぐらされている。土塁が谷をわたる部分は石塁が置かれ,特に南と北は土塁が二重になっている。城門は北側に1ヵ所,南側に3ヵ所設けられており,それぞれ門礎が残っている。城内には御殿場,主城原,八つ波,村上,猫坂,尾花,増長天の各地区に建物礎石がグループをなして残っており,これまでに70棟分あまりが確認されている。各礎石群は,そのほとんどが梁行き3間,桁行き5間,各柱間2.1m(7尺)等間の総柱で,きわめて規格性が高く,倉庫と考えられる。また主城原地区では3間×7間,3間×9間の官衙風や長倉風の掘立柱建物も発見されており,中枢的地域であったと考えられる。774年(宝亀5),大野城内に四王寺をつくり捻像4体を安置したことが史料に見えている。四王寺山の名称は,これに由来する。
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大野城[市] (おおのじょう)

福岡県西部の市。1972年筑紫(ちくし)郡大野町が市制,改称。人口9万5087(2010)。市名は天智天皇の代に大宰府防衛のため築かれた日本最古の山城の一つ大野城(跡は特別史跡)に由来する。福岡市の南東に接して南北に細長く,南部と北東部に山地・丘陵が広がる。中央の御笠川低地は古くから開けた農村であり,現在はJR鹿児島本線,西鉄大牟田線,国道3号線,九州自動車道が並走し,福岡平野と筑紫平野を結ぶ交通の要衝となっている。第2次世界大戦中,白木原(しらきばる)から隣接の春日原(かすがばる)にかけて大軍需工場ができ,戦後アメリカ軍基地がおかれた。1965年ころから基地の返還と福岡市の膨張に伴って西鉄白木原駅を中心に丘陵・山麓部まで住宅地化が急激に進み,福岡市南部の市街地に連続する住宅街を形成している。国道沿いに車修理などの中小工場も立ち並び,1960-80年の20年間に人口が4倍強に激増するなど,都市化が著しい。東隣の太宰府市にかけては水城(みずき)跡(特史),大宰府跡(特史)など重要な史跡が多い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野城」の意味・わかりやすい解説

大野城(市)
おおのじょう

福岡県中西部、福岡市に隣接する住宅都市。1972年(昭和47)筑紫(ちくし)郡大野町が市制施行し、改称。南部と北東部に山地や丘陵を抱える南北に長い市域で、中央部に御笠川(みかさがわ)の低地が開けて、古くから交通の要路となり、現在もJR鹿児島本線、西日本鉄道天神大牟田(おおむた)線、国道3号、九州自動車道、福岡都市高速2号などが通じる。第二次世界大戦前は米作や野菜栽培を中心とする農村であったが、戦後、白木原(しらきばる)から春日原(かすがばる)にかけての軍需工場跡地に、アメリカ軍基地や、博多織(はかたおり)工場が進出、発展の基礎となった。その後はJR大野城駅、西鉄白木原駅を中心に、丘陵地に大規模な団地が造成されて住宅地化が進行し、人口が急増した。国道3号沿いには、建築関連製品の製造業を中心に、中小工場が進出している。大宰府(だざいふ)防衛のために築かれた大野城跡や水城跡(みずきあと)は国の特別史跡に指定されている。面積26.89平方キロメートル、人口10万2085(2020)。

[石黒正紀]

『『大野城市史』全4巻(1990~2005・大野城市)』



大野城(福岡県)
おおのじょう

福岡県大野城市、糟屋(かすや)郡宇美(うみ)町、太宰府(だざいふ)市の3市町にまたがる四王寺山(標高410メートル)に築かれた古代の山城(やまじろ)遺跡。663年(天智天皇2)に百済(くだら)救援を行った日本軍が白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗北を喫したのを契機に、665年百済系渡来人憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくぶ)らの指揮のもと基肄(きい)城とともに、大宰府防衛さらには全土防衛の最前線施設として築造された山城で、代表的な朝鮮式山城。城の規模は、中央に小盆地をもつ四王寺山の峰々を約6.5キロメートルに及ぶ土塁、石塁が巡り、さらに南側と北側には二重に土塁を巡らし、より堅固なものとしている。1973年(昭和48)以降の発掘調査によって、4か所の城門跡、1か所の水門跡のほかに倉庫と考えられる60余棟の建物跡が確認されている。建物は柱間(はしらま)3間(6.3メートル)×5間(10.5メートル)の規模のものが多く、尾花、八ツ波、主城原(しゅじょうばる)地区に集中している。当城は、奈良時代以降四天王を祀(まつ)り鎮護国家を祈る霊場となったが、876年(貞観18)の『類聚(るいじゅう)三代格』に大野城衛卒の粮米(ろうまい)を城庫に納めさせることがみえていることから、9世紀後半に至っても当城が維持されていたことがうかがえ、古代の山城のなかでもその機能が長く保たれていたことがわかる。1953年(昭和28)特別史跡に指定された。

[酒寄雅志]

『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1968・風間書房)』


大野城(福井県)
おおのじょう

戦国期から江戸期の城。福井県大野市城町亀山(かめやま)にあり、亀山城ともいう。標高250メートルの亀山山頂を本丸とし、山麓(さんろく)に二の丸、三の丸を配する山城(やまじろ)で、1575年(天正3)織田信長の部将金森長近(かなもりながちか)が3万石で入って築城したものである。その後城主の変遷があったが、1682年(天和2)土井利房(どいとしふさ)が4万石を領して入封し、以来土井氏が代々世襲した。現在、本丸には復興天守閣が建っている。

[小和田哲男]


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百科事典マイペディア 「大野城」の意味・わかりやすい解説

大野城【おおのじょう】

663年に白村江の戦で敗れた日本が,唐や新羅の侵略を恐れ大宰府の防衛を目的として築いた古代の朝鮮式山城のうちの一つで,国の特別史跡に指定。現在の福岡県宇美町,大野城市,太宰府市にまたがり,基肄城水城(みずき)とともに長城をなす。尾根上に約6kmにわたり土塁を築き,谷をまたぐ箇所には石塁が設けられた。城内には建物礎石が70棟ほど確認されている。城跡の一部は〈四王寺県民の森〉となり,憩いの場となっている。

大野城[市]【おおのじょう】

福岡県中西部の市。1972年市制。近郊農村地帯をなすが鹿児島本線,西鉄天神大牟田(おおむた)線,国道3号線が通じ,福岡市への通勤者が多く,最近の人口増が著しい。大野城跡,水城(みずき)跡(ともに特別史跡)がある。26.89km2。9万5087人(2010)。
→関連項目金田城

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大野城」の解説

大野城
おおのじょう

大宰府政庁の北にある標高410mの四王寺山に築かれた朝鮮式山城。福岡県宇美町と太宰府市・大野城市にまたがる。白村江(はくそんこう)の敗戦後の国際的緊張のなかで,665年(天智4)亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)らに指揮させて,長門城・椽(き)城(基肄(きい)城)と同時に築かれた。四王寺山の尾根に沿ってめぐらされた土塁・石塁の総延長は約6.5kmで,南側と北側は二重になっており,4カ所に城門があった。約180ヘクタールの城内には7カ所,計70棟余の建物があり,そのほとんどが高床式倉庫だったことから,大宰府の逃込み城だったことがわかる。大宰府あるいは筑前国によって管理されたようで,823年(弘仁14)に主城が新設されて城司が成立。774年(宝亀5)には新羅(しらぎ)調伏のため当城内に四天王寺(四王寺・四王院)を創建。国特別史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大野城」の意味・わかりやすい解説

大野城
おおのじょう

(1) 福岡県大野城市の大城 (おおのき) 山にある日本最初の山城。天智4 (665) 年,外寇から大宰府を守るために築いたもの。 (2) 福井県大野市にあり,織田信長の将金森長近が天正3 (1575) 年に築いたもの。初め亀山城と呼んでいた。長近のあと青木秀以,織田秀雄,土屋昌明,小栗直高らが居城し,天和2 (1682) 年,土井利房の所領となって以来,明治まで 190年間在城。天守閣は 1968年復元。 (3) 和歌山県海南市の南大野中部落の山中にあった山城。築城者もその年代も不明。 14世紀の中頃,細川宗茂がこの地方を領し,野瀬某を代官として居城させた。そののち,山名義理,平井豊後,畠山満国らが城主として守ったが,16世紀の末に豊臣秀吉の紀州討伐軍によって落城。

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事典・日本の観光資源 「大野城」の解説

大野城

(福岡県大野城市・太宰府市・糟屋郡宇美町)
日本100名城」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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