福岡県太宰府市と糟屋郡宇美町にまたがる通称四王寺山にある古代の朝鮮式山城。7世紀代における朝鮮半島の軍事的緊張のなかで,660年の百済滅亡と,それに続く663年の白村江における日本援軍の敗戦を背景として築造された。《日本書紀》によると天智天皇4年(665)の条に〈憶礼福留と四比福夫を筑紫国に遣わして大野城と椽(き)城(基肄(きい)城)を築いた〉とあり,水城(みずき)とともに大宰府の防衛網を形成した。遺跡は標高410mを最高所とし,北側に大きな谷を取りこんだ馬蹄形の尾根上に延長約6kmにわたって土塁がめぐらされている。土塁が谷をわたる部分は石塁が置かれ,特に南と北は土塁が二重になっている。城門は北側に1ヵ所,南側に3ヵ所設けられており,それぞれ門礎が残っている。城内には御殿場,主城原,八つ波,村上,猫坂,尾花,増長天の各地区に建物礎石がグループをなして残っており,これまでに70棟分あまりが確認されている。各礎石群は,そのほとんどが梁行き3間,桁行き5間,各柱間2.1m(7尺)等間の総柱で,きわめて規格性が高く,倉庫と考えられる。また主城原地区では3間×7間,3間×9間の官衙風や長倉風の掘立柱建物も発見されており,中枢的地域であったと考えられる。774年(宝亀5),大野城内に四王寺をつくり捻像4体を安置したことが史料に見えている。四王寺山の名称は,これに由来する。
執筆者:石松 好雄
福岡県西部の市。1972年筑紫(ちくし)郡大野町が市制,改称。人口9万5087(2010)。市名は天智天皇の代に大宰府防衛のため築かれた日本最古の山城の一つ大野城(跡は特別史跡)に由来する。福岡市の南東に接して南北に細長く,南部と北東部に山地・丘陵が広がる。中央の御笠川低地は古くから開けた農村であり,現在はJR鹿児島本線,西鉄大牟田線,国道3号線,九州自動車道が並走し,福岡平野と筑紫平野を結ぶ交通の要衝となっている。第2次世界大戦中,白木原(しらきばる)から隣接の春日原(かすがばる)にかけて大軍需工場ができ,戦後アメリカ軍基地がおかれた。1965年ころから基地の返還と福岡市の膨張に伴って西鉄白木原駅を中心に丘陵・山麓部まで住宅地化が急激に進み,福岡市南部の市街地に連続する住宅街を形成している。国道沿いに車修理などの中小工場も立ち並び,1960-80年の20年間に人口が4倍強に激増するなど,都市化が著しい。東隣の太宰府市にかけては水城(みずき)跡(特史),大宰府跡(特史)など重要な史跡が多い。
執筆者:土井 仙吉
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福岡県中西部、福岡市に隣接する住宅都市。1972年(昭和47)筑紫(ちくし)郡大野町が市制施行し、改称。南部と北東部に山地や丘陵を抱える南北に長い市域で、中央部に御笠川(みかさがわ)の低地が開けて、古くから交通の要路となり、現在もJR鹿児島本線、西日本鉄道天神大牟田(おおむた)線、国道3号、九州自動車道、福岡都市高速2号などが通じる。第二次世界大戦前は米作や野菜栽培を中心とする農村であったが、戦後、白木原(しらきばる)から春日原(かすがばる)にかけての軍需工場跡地に、アメリカ軍基地や、博多織(はかたおり)工場が進出、発展の基礎となった。その後はJR大野城駅、西鉄白木原駅を中心に、丘陵地に大規模な団地が造成されて住宅地化が進行し、人口が急増した。国道3号沿いには、建築関連製品の製造業を中心に、中小工場が進出している。大宰府(だざいふ)防衛のために築かれた大野城跡や水城跡(みずきあと)は国の特別史跡に指定されている。面積26.89平方キロメートル、人口10万2085(2020)。
[石黒正紀]
『『大野城市史』全4巻(1990~2005・大野城市)』
福岡県大野城市、糟屋(かすや)郡宇美(うみ)町、太宰府(だざいふ)市の3市町にまたがる四王寺山(標高410メートル)に築かれた古代の山城(やまじろ)遺跡。663年(天智天皇2)に百済(くだら)救援を行った日本軍が白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗北を喫したのを契機に、665年百済系渡来人憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくぶ)らの指揮のもと基肄(きい)城とともに、大宰府防衛さらには全土防衛の最前線施設として築造された山城で、代表的な朝鮮式山城。城の規模は、中央に小盆地をもつ四王寺山の峰々を約6.5キロメートルに及ぶ土塁、石塁が巡り、さらに南側と北側には二重に土塁を巡らし、より堅固なものとしている。1973年(昭和48)以降の発掘調査によって、4か所の城門跡、1か所の水門跡のほかに倉庫と考えられる60余棟の建物跡が確認されている。建物は柱間(はしらま)3間(6.3メートル)×5間(10.5メートル)の規模のものが多く、尾花、八ツ波、主城原(しゅじょうばる)地区に集中している。当城は、奈良時代以降四天王を祀(まつ)り鎮護国家を祈る霊場となったが、876年(貞観18)の『類聚(るいじゅう)三代格』に大野城衛卒の粮米(ろうまい)を城庫に納めさせることがみえていることから、9世紀後半に至っても当城が維持されていたことがうかがえ、古代の山城のなかでもその機能が長く保たれていたことがわかる。1953年(昭和28)特別史跡に指定された。
[酒寄雅志]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1968・風間書房)』
戦国期から江戸期の城。福井県大野市城町亀山(かめやま)にあり、亀山城ともいう。標高250メートルの亀山山頂を本丸とし、山麓(さんろく)に二の丸、三の丸を配する山城(やまじろ)で、1575年(天正3)織田信長の部将金森長近(かなもりながちか)が3万石で入って築城したものである。その後城主の変遷があったが、1682年(天和2)土井利房(どいとしふさ)が4万石を領して入封し、以来土井氏が代々世襲した。現在、本丸には復興天守閣が建っている。
[小和田哲男]
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大宰府政庁の北にある標高410mの四王寺山に築かれた朝鮮式山城。福岡県宇美町と太宰府市・大野城市にまたがる。白村江(はくそんこう)の敗戦後の国際的緊張のなかで,665年(天智4)亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)らに指揮させて,長門城・椽(き)城(基肄(きい)城)と同時に築かれた。四王寺山の尾根に沿ってめぐらされた土塁・石塁の総延長は約6.5kmで,南側と北側は二重になっており,4カ所に城門があった。約180ヘクタールの城内には7カ所,計70棟余の建物があり,そのほとんどが高床式倉庫だったことから,大宰府の逃込み城だったことがわかる。大宰府あるいは筑前国によって管理されたようで,823年(弘仁14)に主城が新設されて城司が成立。774年(宝亀5)には新羅(しらぎ)調伏のため当城内に四天王寺(四王寺・四王院)を創建。国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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