出生直後から1歳または1歳半くらいまでの発達期をさす。語源的には乳を飲んでいる時期という意味であろうが、現在はかつてと違ってきわめて早期に離乳する育児法が一般的になったため、乳飲み子といわれる年代がいつごろかもはっきりしなくなったが、長い慣用に従うときは1歳までを乳児期という。一方、「はいはい」をやめて歩行に移り、また片言の生まれてくる1歳から1歳半までの時期は、かなり明確な発達上のくぎりをつくるから、それを強調するときは1歳半までを乳児期とする。いわゆる「赤ちゃん」の時期に相当するといってもよい。なお、出生直後から生理的体重減少が回復するまでの生後7日間、あるいは臍(へそ)の緒の脱落した痕(あと)の治るまでの10日間を「新生児期」とよんだが、しだいに生後4週間までをさすように変わってきた。
[藤永 保]
乳児期の特徴としては、まず身体発達の目覚ましさがあげられる。胎児期の成長速度は癌(がん)細胞のそれをもしのぐといわれるが、身長、体重、脳などの発達曲線をみると、胎児期の成長速度は、生後のほぼ1年間そのまま維持されていることがわかる。そこで、スイスの生物学的人間学者A・ポルトマンは、この時期を「子宮外の胎児期」と名づけた。しかも、このような発達の様相は、人間以外の動物にはけっしてみることができないという。
[藤永 保]
前記の事実は、乳児期の精神的発達にも独特な特徴があることを暗示している。しかし、乳児期の精神発達については、1960年代までほとんど具体的な研究は行われることがなかった。一つには、乳児期は感染症の危険が大きかったので、できるだけ大人から隔離することが予防衛生上奨励されていたためである。また、日常的に観察している限り、乳児期の大半は、ただ乳を飲んで眠り、植物のように成長するだけとみえるので、乳児はたいした精神生活はもたないものと思い込まれていた。こうした先入見や古い観念が是正されたため、乳児期の発達研究は1960年代以降急速に進展した。その結果、意想外の知見がいろいろと明らかにされ、旧来の乳児像はいまや一変したといっても過言ではない。受動的・植物的な乳児像は、むしろ正反対の能動的・積極的な適応者のそれに置き換わったといえる。
[藤永 保]
たとえば、運動能力に関して、従来、新生児はほとんどなんの体力もないと信じられてきた。しかし、出生直後から把握反射はかなり強く、片手で棒を握らせて体を吊(つ)り上げることも可能である。また、少なくとも5~6か月までは、頭を持ち上げるなどの局部的運動はあっても、総体としての移動能力はほとんどないとみられてきた。しかし、生後7日くらいの新生児の両脇(わき)を支え直立させると、両足で床をけって前進するような運動型(歩行反射)を示す。そうして、この運動型を強化する練習を課すと、南部アフリカに住む採集狩猟民族のサン人にみるように、通常よりははるかに早く歩行の開始がみられる。乳児の潜在的運動能力はけっして軽視できない。
[藤永 保]
新生児は視知覚能力もすでによく発達していて、自分のほうに衝突する経路を直進してくる事物に対しては、手をかざし頭を反らすという明白な防御反射を示すが、同じく接近してきてもそれる方向にいくような事物にはこの反射は示されない。これらの事実は、乳児が方向・奥行・運動などについてのかなり高い空間知覚能力を備えて生まれてくることを意味する。また、出生直後の新生児は、音を発する事物の方向に顔を向け、目の焦点をあわせようと試みる。このことはまた、乳児が耳で聞いた事物の所在を目で確かめようとする(耳と目の協応)能力を、すでに備えている証左となる。しかし、生後1か月くらいになると、乳児は、音がしてももはや顔を向けない。だから、この時期にはすでに、音は事物の所在を示すという認知が確立し、そのため無関心になったとみられる。イギリスの乳児心理学者バウアーT. G. R. Bower(1941― )は、これまでそのような慣れの過程を無視したために、1か月児には協応能力は認められず、ましてそれ以前には皆無と速断され、新生児=植物説を強化してきた、と指摘している。
[藤永 保]
学習能力についても、新生児は、異なる二つの音に対してそれぞれ頭を右または左回転させる弁別学習が可能であり、また、この学習完成後に、前とは反対方向に頭を回転させる逆転移行学習も可能であることが明らかにされている。さらに、このような学習に際して、物質的報酬よりも規則性の発見といった探索欲求の充足がより大きな役割を演じることも確かめられている。人間は生まれながらに「考える葦(あし)」なのだといえよう。
乳児は、このような優れた学習能力を駆使して、生後3か月ですでに母親の顔の特徴の一部を認知し、声の違いなども聞き分けているらしい。こうして5~7か月になると、母親の顔や声を遠くから識別して接近や歓迎行動を示し、見知らぬ人は拒否するという人見知りがみられるようになる。これは、母子間に強い愛着が形成されたことのしるしであり、乳児はこの愛着をもとにして安定感や信頼感を獲得し、未知の世界への探索欲求をさらに発展させていく。
[藤永 保]
特異な学習能力として模倣能力があげられるが、これについても乳児期にすでに備わっているとする研究例がある。親や親しい成人などが、乳児に対しその子に適したリズムで口を開けて舌を出すなどの動作を行うと、乳児はそれを注視したのち、自らもその動作(ときには部分動作)を行うのがみられる。ピアジェは、このような直接的な模倣ではないが、開けにくい箱に直面して、乳児が自分の口を開けるという代償動作を行った例を報告している。舌出し模倣の部分反応は、新生児期にすでにみられるという報告もあるが、これと後の意図的模倣が同一であるかどうかは不明であり、そのため、新生児期などにみられる早期の模倣をとくに共鳴動作とよぶことがある。
[藤永 保]
これと関連して、新生児に特異な同調行動がみられるという報告がある。新生児に言語音を聞かせると、そのリズムに同調させて身体各部をリズミカルに動かす行動がおこる。この動きを誘発するのは、母国語でなくともよい。また、音楽のようなその他のリズム音ではおこらない。このことは、新生児が生まれながらに、言語に対して特異な感受性をもつためと考えられる。また、胎内にマイクを入れて録音すると、外の音響がかなりよく入ることがわかる。アメリカの小児科医ブラゼルトンThomas Berry Brazelton(1918―2018)は、バイオリニストの母親が妊娠中にのみ練習していた曲を乳児が好んで聴くようになったという例をあげているが、胎児段階ですでにある種の聴覚的学習の行われる可能性を示唆している。こう考えると、出生直後から母親の声を識別しているという資料が示されているのは無理ではないと思われる。言語理解には、実物とラベルの対応づけ学習だけではなく、大人のもつ分類基準の基礎的習得を必要とする。乳児は、初め「ワンワン」でイヌもネコも指示するいわゆる過剰一般化の段階を経て、やがてイヌのみに適用するようになっていくが、このようなカテゴリー名称としての言語理解は、およそ7~8か月過ぎになって初めて認められる。発語面については、4か月過ぎからいわゆる喃語(なんご)(ことばにならない発声)が始まり、1音節のものからしだいに多音節の複雑な発声に変わる。大人に理解できる社会的発語は、6か月ぐらいで認められるという早熟の場合もあるが、ヒトの場合、喉頭(こうとう)部に共鳴腔(くう)ができることによって初めて自由な発声が可能となるので、社会的発語は1歳過ぎになってようやく始まるのが普通である。
[藤永 保 2018年3月19日]
乳児の視知覚能力は初めからかなり高度の発達を遂げているが、乳児はこれによりまたさまざまな学習を行う。学習は、外的対象のもつ諸側面のうち情報量の高い部分に自ら注意が向けられるため、これに対して進行すると考えられる。こうして、生後3か月ぐらいには、すでに母親の顔のうち額の生え際の部分や目の部分に視覚的走査活動が活発となり、これらが統合されて、5~6か月には母親の顔の個性的特徴が把握され、人見知りが始まるようになる。このような認知性能の急速な発達の基礎には、生得性のかなり高度の認知機構が備わっていることが想定されよう。事実、乳児もある事物がある場所にあれば、特定の事変がない限りいつまでもそこに存在し、また同様に、突然出現したりすることもないのを当初から把握しているようである。あるいは、運動する物体の軌道を予測し、天地逆の図形の同一性を認知し、さらには、映像と実物とを早くから識別している。物体が空中で静止しているのを不審と思う表情を示すなど、基本的な物理法則を理解していると考えられる。しかし、成長につれて物が突然視界から消えるとなくなったと感じたり、A地点に隠したものを目の前でB地点に移して隠したにも関わらず依然としてA地点で探すといった奇妙な認知の仕方が現れてくる。こうした多様な乳児の基本的認知能力とその発達の様相を解明するため、今後の研究の進展がまたれる。
[藤永 保]
1990年代ごろからの乳児研究では、生後9か月ごろに現れる発達上の大きな節目が注目されている。乳児はこのころまでは、物か人かのいずれかしか一時に関わることはできない。しかし、9か月くらいになると、養育者が注視している物を自分も目で追う、見知らぬ物に出会ったとき養育者と物とを交互に見比べどんな意味があるか判定しているような態度を示す、また自分の興味のある物やできごとを指さし、養育者の注意をひこうとするなどの行動が出現する。これらは、それまでの人か物かどちらか一方への関わりが拡張され、養育者がその物(対象)をどうみているか、自分の物への関心をどう判定するかといった養育者の視点を取り込んだ別種の関わり(養育者―物―乳児三者の重層的関わりを三項関係という)へと広がったことを意味する。乳児は他者と物の織り成す新しい世界に初めて足を踏み入れたといってもよいから、これを9か月革命とよぶことがある。
以上のように乳児期にはすでに、その精神生活上の基本能力は備わっている。衝撃を受ける危険を学習によって白紙から習得しようとすれば、生命の維持がおぼつかなくなることは明らかである。したがって、こうした基本能力が初めから備わっていることには合理的な根拠があると思われる。乳児はこうした生まれつきの能力を活用して、養育者と絶えざる相互作用を繰り返しながら成長する。これらの事実は、乳児期の育児法(しつけ)に大きな反省をもたらす。また、乳児期には、脳の急速な成長とシナプスの形成および逆の不使用脳細胞の衰退が認められ、これに伴うさまざまな精神機能の発生上の臨界期が存在すると考えられる。たとえば、先天性白内障の手術は生後1か月以内に行わないと、物理的視力は回復しても、視覚的情報を活用する能力は損なわれるという。この点でも、乳児期のもつ意義はきわめて大きい。
[藤永 保]
『T・G・R・バウアー著、岡本夏木・野村庄吾・岩田純一・伊藤典子訳『乳児期』(1980・ミネルヴァ書房)』▽『ジェームズ・ケニー、メアリー・ケニー著、安塚俊行訳『親子関係の心理学』(1986・勁草書房)』▽『三宅和夫著『子どもの個性――生後2年間を中心に』(1990・東京大学出版会)』▽『筧三智子著『子どもの発達と音楽――幼稚園保育園の音楽教育の理論と実際』(1991・音楽之友社)』▽『三宅和夫編著『乳幼児の人格形成と母子関係』(1991・東京大学出版会)』▽『中俊博著『子どもの成長と運動遊び――その体育学的研究』(1993・黎明書房)』▽『杉原一昭他著『事例 発達臨床心理学事典』(1994・福村出版)』▽『T・G・R・バウアー著、岩田純一・水谷宗行訳『賢い赤ちゃん――乳児期における学習』(1995・ミネルヴァ書房)』▽『今井和子著『子どもとことばの世界――実践から捉えた乳幼児のことばと自我の育ち』(1996・ミネルヴァ書房)』▽『小倉清著『子どものこころ――その成り立ちをたどる』(1996・慶應義塾大学出版会)』▽『倉戸ツギオ編著『育て、はぐくむ、かかわる――生涯発達心理学の視点から発達行動を探る』(1997・北大路書房)』▽『佐々木正美著『子どもへのまなざし』(1998・福音館書店)』▽『白石正久文・写真『子どものねがい・子どものなやみ――乳幼児の発達と子育て』(1998・かもがわ出版)』▽『山本幸道著『子どもを「育てる」』(1999・東洋出版)』▽『J・G・ブレムナー著、渡部雅之訳『乳児の発達』(1999・ミネルヴァ書房)』▽『今田寛・八木昭宏監修、山本利和編『発達心理学』(1999・培風館)』▽『白佐俊憲・工藤いずみ著『発達心理学基礎テキスト――乳児期から青年期まで』(1999・山藤印刷出版部、川島書店発売)』▽『梅本堯著『子どもと音楽』(1999・東京大学出版会)』▽『桜井茂男編著『乳幼児のこころの発達』1~3(1999・大日本図書)』▽『無藤隆編『発達心理学』(2001・ミネルヴァ書房)』▽『秦野悦子編『ことばの発達入門』(2001・大修館書店)』▽『ヴィゴツキー著、柴田義松他訳『新 児童心理学講義』(2002・新読書社)』▽『曽和信一著『保育と言葉――保育者と子どもの心の架け橋を求めて』(2003・明石書店)』▽『西川由紀子著『子どもの思いにこころをよせて――〇、一、二歳児の発達』(2003・かもがわ出版)』▽『マイケル・トマセロ著、大堀壽夫・中澤恒子他訳『心とことばの起源を探る――文化と認知』(2006・勁草書房)』
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…幼児の言語。以下,幼児期を3期に分け,乳児期,幼児前期,幼児後期として,言語発達・言語習得の過程と幼児言語の特質を概観することとする。乳児期は言葉の準備期で,初語の出る10ヵ月から1歳ごろまで,幼児前期は,日常生活に必要な地域社会で用いる語や文や音声が使えるようになる時期,幼児後期は小学校にあがるまでで,言語による自己行動の調整(内言(頭で考える))ができるようになる時期である。…
※「乳児期」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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