朝日日本歴史人物事典 「愛宕通旭」の解説
愛宕通旭
生年:弘化3.10.9(1846.11.27)
幕末維新期の公家。内大臣久我建通の子。養父は右近衛権少将愛宕通致。通称愛宕大夫。安政4(1857)年従五位下となり,同6年元服,昇殿を許される。慶応2(1866)年8月,朝政の革新,長防(長門,周防)の解兵,列藩の招集,勅勘諸卿の赦免などを求めた中御門経之らと22卿列参奏議に加わる。明治1(1868)年2月参与兼軍防事務局親兵掛,同10月神祇官判事となるが翌年5月に免官。維新後の旧公家の失権や京都の疲弊を嘆き,新政府の開化方針を憤り,天皇の京都還幸実現による攘夷の実行と政体の改革を図った。当時不穏の情勢にあった長州藩や北九州の反政府的動きとも通じ,外山光輔ら旧公家,および柳川藩士古賀十郎,秋田藩士初岡敬治,土佐藩郷士堀内誠之進らと画策したといわれるが,計画段階で発覚。同4年3月14日に東京で捕らえられ,同年12月3日,外山光輔らと共に自刃を命ぜられた。<参考文献>高木俊輔『それからの志士』
(高木俊輔)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報