成合村
なりあいむら
[現在地名]高槻市成合〈北の町・中の町・西の町・東の町・南の町〉・弥生が丘町・日吉台〈五番町・六番町・七番町〉・別所本町・宮が谷町・成合
古曾部村・別所村・安満村の北にある。西は芥川村の飛地、原村・津之江村の飛地。集落は安満山西麓、檜尾川上流の河谷に位置し、村域中央を楊谷観音楊谷寺(現京都府長岡京市)への参詣道が通る。産土神春日神社の由緒に、祭神天児屋根命の神体を兵庫浦(現神戸市)から檜尾川の谷の北にある鷹取山に勧請したが、あるとき麓の森が「里に成り合ふたる地なり」との神託があったので村民一同を住まわせたという伝承がある。春日神社の社地を中心に、平安期より同社の神宮寺悉檀寺があった。のちに同寺門前・境域などで庄園化が進み、正中二年(一三二五)一一月二五日の承鎮法親王付属状(三千院文書)には、山城大原三千院中堂領に付けられた散在庄園として「摂津国悉壇寺号成合庄」がみえる。
成合村
なりあいむら
[現在地名]緑区成合町・たちばな台一―二丁目・桜台・上谷本町
東は上谷本村、南から西にかけて恩田村、北は鴨志田村と接する。鴨志田村・寺家村には当村の飛地がある。所々に小さな谷戸が入組む。小田原衆所領役帳に長谷川弥五郎「拾弐貫八十四文 成合」とある。
近世初めは幕府直轄領。寛永七年(一六三〇)一部が旗本朝岡領、同一〇年残りの地が旗本筧領となり二給。田園簿では田五〇石余、畑三三石余。文政七年(一八二四)四月の保土谷町村明細帳(保土ヶ谷区郷土史)によると保土ヶ谷宿(現保土ヶ谷区)の当分助郷を勤める。なお、享和四年(一八〇四)の中原道の上白根村(現旭区)の部分について、道掃除の負担を割当てられていた(同年「白根村明細帳」旭区高橋文書)。
成合村
ならいむら
[現在地名]豊田市成合町
勘八山の東、力石川の南に位置する。矢作川左岸の成合・上高から鞍ヶ池にかけては、藤岡面の断層が北北東から南南西に走り、七〇メートルほどの高度差がある。文久二年(一八六二)の村絵図によると、村は標高二〇〇メートルを超える山々に囲まれているため、水源となる細い川が、村の中を網の目のように走って北の力石川の方向に向かっている。集落は南の方に多いが、散在している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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