日本の城がわかる事典 「敦賀城」の解説 つるがじょう【敦賀城】 福井県敦賀市にあった平城(ひらじろ)。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの豊臣方(西軍)の勇将として知られる大谷吉継の居城である。朝倉氏滅亡後の越前は一向一揆により混乱したが、織田信長は1575年(天正3)に越前の平定を終え、武藤宗右衛門に敦賀郡代を命じた。信長は1582年(天正10)の本能寺の変で死去し、その翌年の1583年(天正11)には、羽柴(豊臣)秀吉家臣の蜂屋頼隆が5万国で敦賀に入封し、それまで武藤氏が居城としていた花城山城(敦賀市)を廃して、新たに敦賀城を築いた。城主の蜂屋頼隆は豊臣秀吉の九州遠征中の1589年(天正17)に病没し、替わって敦賀郡・南条郡・今立郡5万7000石の領主として敦賀城に入城したのが大谷吉継である。吉継はのちに病を患い、面体を白い頭巾で隠した猛将として知られ、関ヶ原の戦いで討ち死にした。吉継は西軍に属したため戦後改易となり、敦賀は福井城(福井市)を本城とする初代福井藩主の結城秀康(家康二男)の所領となった。敦賀城も福井城の支城として存続したが、1615年(元和1)の一国一城令により廃城となった。その後、敦賀には酒井家小浜藩の支藩が置かれたが、その陣屋は旧敦賀城跡ではなく、金ヶ崎城(敦賀市)近くの鞠山に建てられた。城跡は現在、ほとんど市街化して失われてしまった。同市結城町の真願寺一帯から同寺南の敦賀西小学校周辺までが敦賀城の城域であったと推定されている。同小学校の校内と真願寺の前に敦賀城趾の石碑があるほか、敦賀城の痕跡はない。なお、かつての敦賀城の裏門が市内の真願寺の乾門の礎石と来迎寺の表門に移築され現存しているほか、八幡神社の境内に表門の礎石が展示されている。JR北陸本線敦賀駅からタクシー。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報