新三民主義(読み)しんさんみんしゅぎ(英語表記)Xin san-min zhu-yi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

新三民主義
しんさんみんしゅぎ
Xin san-min zhu-yi

辛亥革命失敗の原因を追究していた孫文が,五・四運動,ロシア革命,中国共産党の成立をみるうち,人民の力の大きさと帝国主義の本質について認識を深め,それまでの三民主義を一層発展させた結果,1924年1月の中国国民党一全大会において明確化した中国革命の理論。「連ソ,容共,労農扶助」の三大政策を掲げ,23年の国民党改組,24年の第1次国共合作を経て踏出した国民革命運動の統一戦線の綱領となった。不平等条約撤廃など,反帝,独立の姿勢を明確にし,被圧迫民族との連帯を説く民族主義,4つの直接民権 (選挙権,罷免権,創制権,複決権) と五権憲法 (立法司法,行政,監察,考試) により真の全民政治を目指す民権主義,封建的土地所有制をなくす地権平均と私人資本の独占防止と国家資本の育成をはかる資本節制,さらに「耕す者に田を」のスローガンを打出し,農民武装を説く民生主義を内容とする。のち,毛沢東はこれを新民主主義革命段階での最低綱領として位置づけ,のちの抗日民族統一戦線の共同綱領とした。

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

新三民主義
しんさんみんしゅぎ

1924年の国民党改組以降,大きく変化を遂げた孫文の三民主義
孫文の三民主義は,第一次世界大戦後の内外情勢の変化を背景に発展した。民族主義は反帝国主義と中国民族の自決と国内諸民族の平等を,民権主義は従来のブルジョワ的三権分立主義を修正し,民生主義は社会主義的主張をもつに至った。

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世界大百科事典内の新三民主義の言及

【国民革命】より

…しかし陳炯明(ちんけいめい)の裏切りにあって22年8月,上海に走った孫文はソ連代表とも接触し,国共合作に踏み切った。24年1月,広州における国民党第1期全国代表大会では,連ソ・容共・労農援助の三大政策をともなう新三民主義の旗印のもと,国共合作の方針に見合う改組が断行され,反帝国主義・反軍閥の革命綱領が確定された。中央執行委員には李大釗(りたいしよう)ら,同候補には毛沢東ら共産党員も入り,ボロジンが最高顧問となった。…

【三民主義】より

…中国共産党は27年の国共分裂後三民主義を全面的に批判してきたが,35年半ば以後,抗日民族統一戦線結成への動きの中で三民主義を再評価し始め批判的継承に転じ,その革命的側面を強調するにいたる。毛沢東の《新民主主義論》(1940)はその典型であり,24年の国民党改組を境として三民主義を旧三民主義と新三民主義に分け,新三民主義は中国共産党の〈新民主主義〉段階の最低綱領と一致するとし,抗日民族統一戦線の政治的基礎であると規定した。【藤井 昇三】。…

※「新三民主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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