新井田村
にいだむら
[現在地名]八戸市新井田・旭ヶ丘一―五丁目
八戸城下の南東、新井田川の下流右岸に位置する。西南端で松館川が新井田川に合流し、南を新井田街道(浜街道)が東西に通る。東は大久保村、北は岩淵村、南は妙村・十日市村に接する。
文禄(一五九二―九六)の頃と推定される七月二七日付俊恕書状(遠野南部文書)に「新田殿御雑談之儀罷帰候而(中略)先日新田へ参度候つれ共、用所ニていとま申候間」とある。中世以来根城南部氏一族の新田氏の所領とされ、当村はその居城である新井田城の城下町として発達した。同氏の居住年代は不明であるが、建武五年(一三三八)の浅利清連注進状(遠野南部文書)に同三年のこととして「新田彦次郎政持」とみえ、在名が使われているところから、この頃より居住していたとする説がある。永禄一〇年(一五六七)頃と推定される八月六日付東政勝書状案(同文書)の名宛人は「八戸新田殿御返事」となっている。三戸南部氏の晴政派に立っていた東氏から根城南部氏の後見者的立場にあった新田氏一〇代政盛に宛て、櫛引氏と根城南部氏の抗争や三戸南部氏の内紛の調停・折衝を申入れたものである。新田氏は根城南部氏五代政長の第二子左馬助政持を祖とするといわれ(三翁昔語)、根城南部氏に後嗣がない時は新田家より立てられた。根城南部氏一八代は新田氏九代行政の子政義(政栄)が継ぎ、南部信直を支持して、信直の豊臣秀吉朱印状獲得にあずかって力があった。二二代も新田氏一一代政景の子直義が継いだ。
藩政初期は盛岡藩領に属する。寛永四年(一六二七)根城南部氏の遠野(現岩手県遠野市)転封とともに新田氏は遠野へ移転した。その後旧城下の商人たちは新造された八戸城下に移住させられ、城下の八日町・十八日町・廿八日町を形成したといわれ、三町は新井田町とも称されたという(「付録伝」八戸市立図書館蔵、「八戸藩史料」)。
新井田村
にいだむら
[現在地名]中田町宝江新井田・宝江森
低平地の中央部にあり、東は浅部村、南は小島村(現登米町)、西は加賀野村、北は黒沼村に接する。栗原郡一迫町柳目の日蓮正宗妙教寺にある曼荼羅脇書に、正安三年(一三〇一)一〇月一三日付で、「奥州新田郷公弟子了性房日乗」とあり、この新田郷が当村と関係するとも思われる。村域内上待井に同宗本源寺があり、日蓮の孫弟子日目により、弘安元年(一二七八)開基と伝え、寺内に元弘二年(一三三二)、建武二年(一三三五)などの板碑もある。日目は伊豆の豪族小野田(新田)重綱の五男で、登米郡の所領に移った兄の頼綱をたよって新井田に来て本源寺など奥の四ヵ寺を創建したという。
新井田村
にいだむら
[現在地名]芝山町新井田
小池村の西、木戸川の支流大蔵川の上流に位置する谷津集落。古代の武射郡新居郷(和名抄)の遺称地とされる。「金鼓と鰐口」所載の嘉慶二年(一三八八)四月日の鰐口銘に「武射北郡仁井田新八幡宮」とみえる。願主は安部信長であった。当地称名寺本尊阿弥陀如来坐像の永禄九年(一五六六)一一月三日の胎内背部墨書銘に「武射郡小池郷新田称名寺」、横芝町霊通寺金剛力士像の天正一二年(一五八四)四月一四日の胎内墨書銘に「上総国武射郡新田村」とみえる。
新井田村
にいだむら
[現在地名]塩川町新江木
姥堂川を挟んで高木村の北西に位置する。塩川組に属し、西は新井田谷地村、北は源太屋敷村。新田とも記した。建仁(一二〇一―〇四)頃田辺義秀なる者が当地に館を築き、新しく田地を開いたことが村名の由来と伝える(新編会津風土記)。天正一七年(一五八九)八月一七日の伊達政宗朱印状写(同書)に「会津山之郡にいたの内、興徳寺わき寺家さいせういん分」とみえ、政宗は同所が誰に与えられようとも年貢・館役銭・惣役を二貫七三〇文とすることを田那辺五郎左衛門に約束し、一方で軍役を課すこととしている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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