人間と魚の中間の形態をもつ架空の動物。多くは上半身が人間で下半身が魚であるが,地域と時代によっては逆転することもある。一般に,人魚の正体をジュゴンとするのは,《本草綱目》などの注釈による見解にすぎず,世界各地の人魚伝説を包括するものではない。近世以降では完全に架空の動物だが,それ以前は実在の海獣などに強く結びついており,むしろ身近な生きものと考えられていたようだ。
神話の段階から半人半魚の神々が存在した。まずバビロニアではオアンネスOannesという海神が崇拝されており,下半身が魚の男性像として彫刻に残されている(前8世紀,コルサバード出土)。これはさらにペリシテ人に受け継がれ半人半魚の主神ダガンになった。またシリアの月神アタルガティスAtargatis(またはデルケトDerketō)は魚の鰭(ひれ)を持つ女の姿で表されることがある。この神は豊饒をつかさどり,ギリシアのアフロディテやローマのウェヌス(ビーナス)の原形となった。ギリシアでは,海の精ネレイスNērēisたちや海神トリトンが人魚の姿を取る。そして後代になると,これらの神々に形態が類似する海獣などが同じ名称で呼ばれるようになり,神話的存在と実在の動物との混同を促進させた。たとえば大プリニウスの《博物誌》にはネレイスと呼ばれる海の生物についての言及があり,数百頭もの群れが海辺にいて悲しげな声で歌うとしている。また,ネレイスは,人間の形の部分にまで毛が生えているのを除くと伝説どおり半人半魚の姿をしているとも書かれており,明らかにアザラシ類を示している。またトリトンは人間の鼻と魚の鰓(えら)と広い口を持ち,ネレイスたちを凌辱する好色な海の種族とみなされていた。ほかに,ギリシアの女怪セイレンも人魚伝説形成に多大な影響を与えている。上半身が女,下半身が鳥というこの怪物は,その妖しい歌声でオデュッセウスとその一行を魅惑し,海中へ引き込もうとしたが果たせず,怒って海に身を投じ魚に変じたといわれる。ここに鳥と魚が結びつき,中世に翼を持つ人魚の出現をうながす一要因となった。
一方,北ヨーロッパでも海中に住む人間についての伝説や,海から陸に上がってくる黒衣の人間の話が語られている。アイルランドには,聖パトリックがキリスト教に改宗しない女たちをすべて人魚に変身させたとの伝承がある。スカンジナビアには人間とアザラシの恋物語が多いためか,人魚のほうも黒衣の修道女の姿をとる場合さえある。いずれにしろ西洋では通俗的な人魚のイメージが中世にほぼ固定し,各地に広まった。その形姿は大別すると次のとおりである。(1)女の人魚=マーメイドmermaid(〈海mereの乙女maid〉の意) 手に櫛(くし)と鏡を持ち,海上の岩場に腰かけて歌いながら髪をとかす姿で表現されることが多い。櫛と鏡は人魚の原形となった豊饒と愛の女神(特にウェヌス)の持ちもので,性的快楽への誘いが暗示されている。このため後世では人魚は〈誘惑〉の象徴とされ,居酒屋でも人魚の看板を出すことが流行した(最も有名なのは,B. ジョンソンやシェークスピアなどが集ったロンドンの〈人魚亭Mermaid Tavern〉である)。心理学者ユングも人魚をアニマ(男性に潜む元型的女性イメージ)の一つの表れとしている。このような誘惑者としての人魚像は,19世紀末から20世紀にかけ,E.C.バーン・ジョーンズやF.vonシュトゥックやG.クリムトらによっても表現されている。そこでは彼女たちは,男を破滅させる〈ファム・ファタルfemme fatale(宿命の女)〉である。(2)男の人魚=マーマンmerman トリトンやポセイドン(ネプトゥヌス)のような海の神族として描かれるほか,おそらくスカンジナビアのアザラシ伝説から生じたらしい〈海の修道士sea-monk〉や〈海の司教sea-bishop〉の姿でも図像化される。これはキリスト教の影響により,海の生きものにも人間界に対応する聖職の位階が存在すると信じられたからである。したがってこの時代には,人魚が陸に打ち上げられると,十字架の前にひざまずいて祈る作法を教え,海中の民への布教を行わせるため海へ帰したという。
一般に人魚は信仰や倫理を持たぬ存在であり,地上の人間から魂を譲り受けないかぎり人間になれないと考えられた。そして,魂を手に入れる方法の一つが人間と結婚することである。パラケルススはこの人魚伝説を参考にし,彼が錬金術上のシンボルとして創案した水の精ウンディーネをも,人間と結婚することで魂を得る存在と性格づけた。このような人魚観は,フケーの《ウンディーネ》やジロードゥーの《オンディーヌ》の素材となった。またアンデルセンの《人魚姫》も同様の伝説にのっとっているが,そこでは人間になることの代償として美しい歌声を失う話に仕立てられている。しかしこれらの結婚は通常破局に終わる。男が魚の姿をとった妻を目撃することで愛が壊れるというメリュジーヌ型の物語は,日本の羽衣伝説や鶴女房などにも近い異類婚姻譚のひとつである。
人魚伝説は東洋にも広く流布する。中国の《山海経》に,人魚は四足をもち嬰児のような声を出すとあり,これが東洋の人魚の原形となった。一方《本草綱目》は,〈西楞魚(せいりようぎよ)〉と称する〈上半身は男,女の形のようで下半身は魚尾〉をした動物や〈牛魚〉を挙げるのみで,人魚そのものは挙げていない。しかし《山海経》の人魚がこれらと混同され,後には牛魚がジュゴンと同定されたことから,通説として人魚=ジュゴン観が成立したようだ。また人魚が捕れたとする記事が日本の《扶桑略記》《古今著聞集》などにも出ているが,これらも本来は西楞魚などを指したものと思われる。日本では人魚を〈ざんのいお〉とも呼び,《和名抄》に〈魚身人面〉とある。《釈日本紀》に出てくる人魚もやはり魚身人面で,これらの記述によれば顔が人間に似た魚の意味になり,エイやサメの類を指したようだ。また鳴声が小児のそれに似るという情報を加えればアシカ,アザラシの類とも考えられる。なお《北条五代記》は四足をもつと記しており,こちらは明らかに海獣類といえよう。上半身が人間という形での人魚像はおそらく西洋からの導入であり,江戸期以降に《和漢三才図会》や《六物新志》などの文献がこれを広めたらしい。なお,日本には人魚の肉が不老長寿の薬だとする俗信があり,若狭小浜の八百比丘尼の伝説は特に知られている。
ちなみに,西洋における人魚に対する科学的見解は時代によって変化している。〈存在の連鎖〉が信奉されたほぼ17世紀までは,海中にも陸上と対応する生物相が存在するとの世界観から,海中の人間すなわち人魚の実在を当然視していた。現に,各地の博物館や個人所蔵の標本には人魚の死骸と称するものが多数残されている。ただしこれらはすべてサルと大型魚などを組み合わせた偽造品である。しかし18世紀に至り,動物学の進展によって人魚の虚構性が検証され,リンネが初めて編んだ二名式動物分類学の体系からも落とされた。ただ,生きた人魚や人魚のミイラと呼ばれるものは19世紀を通じて依然各地で報告され,見世物にされた。この時期には日本製の人魚の剝製もかなり出回っている。中でもアメリカの興行師P.T.バーナムの一座が1842年に展示した〈フィジー人魚〉は一大センセーションを引き起こし,各地の博物館がこの偽造品を奪いあった。
→怪物
執筆者:荒俣 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
上半身が人間で、下半身が魚の形をした空想上の動物。世界の海洋国民の間に知られていて、さまざまな伝説が付加されている。イギリスではマーメイド(女性)mermaid、マーマン(男性)mermanと男女別の呼び名をもっている。海の乙女、海の男といった意味である。フランスではシレーヌ、イタリアではシレーナとよばれ、いずれもギリシア神話のセイレンSeiren(上半身人間、下半身鳥の怪物)からきたものという。アンデルセンの童話などでも有名なヨーロッパの人魚は、一般に美人で長い髪をなびかせ、月夜に川や海辺に姿を現し、美しい声で歌をうたう。それに魅せられた船乗りや船が近づくと、水中に引き込まれたり船を沈められたりするという。中国の『山海経(せんがいきょう)』という書物に、人魚は形はナマズに似て四つ足で、人間の赤子のような声で鳴くと記されている。また、そのところの注に、人魚は鯢(さんしょううお)との説明がある。秦(しん)の始皇帝を葬ったとき、人魚のあぶらで灯(ひ)をともしたというが、それは鯢のことらしい。日本では『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「人魚、魚身人面の者なり」とある。実際に見たという記録は古くからあり、そのなかでも『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に詳しい。伊勢(いせ)国で漁夫の網に人魚がかかり、魚身で頭は人間、歯は細かい魚の歯で、顔は猿に似ていた。人間のような泣き声で涙を流していた。食べてみると味は格別であったという。人魚を食べたという話は、民間では八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の伝説として伝えている。食べた結果、800歳までも長生きしたという。ほかにも人魚の出現を悪いことの兆候と説いた記録もある。
人魚の正体をジュゴンやリュウグウノツカイであるとする説もあるが、生息海域から考えて無理なところがある。神話、説話の領域の存在と考えるべきであろう。
[野村純一]
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出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…波浪の原因についても多数の伝承がある。フランスでは,船乗りが裸の人魚を見ると海が怒り,悪魔が迷える魂を迎えに来ると荒れる。海上で口笛を吹くとあらしになる。…
…アメリカマナティーおよびアマゾンマナティーはCITES条約の保護動物。 なお,カイギュウは伝説の動物〈人魚〉のイメージとなった動物といわれているが,これらの特異な顔から美人を連想するのはむずかしい。しかし,前肢(腕)の付け根の腹側に1対の乳頭があり,マナティーでは両手を胸で合わせることや,後足がなく,魚類のものとは異なるが水平尾びれがあることなどから,人魚伝説の発想もありうるとも思われる。…
※「人魚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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