新島庄(読み)にいじまのしよう

日本歴史地名大系 「新島庄」の解説

新島庄
にいじまのしよう

吉野川本流の下流域に成立した奈良東大寺領の初期庄園。

〔低湿地の庄園―八世紀の新島庄〕

造東大寺司大仏の建造など大規模な造営事業を円滑に進めるために、天平勝宝元年(七四九)頃より関東地方から中国・四国地方にいたる広い範囲で大量の庄園の設定を行う。このうち北陸と並んで庄園が比較的濃密に設定されたのが中国・四国地域であり、周防・備後備中・備前・播磨・伊予・阿波などの国に瀬戸内航路にかかわって系統的に設定された。阿波国名方なかた郡に設定された新島庄はそのうちの一つである。当庄は吉野川の本流沿いに本庄ほんしよう枚方ひらかた大豆処おおまめどころというそれぞれ数キロずつ離れて所在する三地区から構成されている庄園として出発する。それぞれの地区の設定時点については、本庄地区が天平勝宝元年に占点(庄域の設定)が開始されており(天平勝宝八歳一一月五日「阿波国名方郡新島庄券」東南院文書)、他の二地区もほぼ同時期に占点されたとみてよい。そして天平勝宝八歳冬に中国・四国にある造東大寺司の庄園の一斉立券が行われ、同年一一月に本庄地区の立券がなされており(前掲新島庄券)、他の二地区も同時に立券されたとみてよい。東大寺により立券された「阿波国名方郡新嶋地」の墾田および陸田は計四二町八段一六二歩(墾田一町五反一五〇歩・陸田四一町三段一二歩)、うち且開二八町八段一七二歩・未開一二町四段二〇〇歩で、その範囲は「有東南河、西江、北錦部志止祢陸田」であった。このような庄園の設定および内部の開発には在地有力豪族が深くかかわるのが通例であり、新島庄でも在地有力豪族が開発責任者としていたはずである。そのような存在は阿波国造であり名方・板野いたの両郡に勢力をもつ粟凡直氏以外には考えられない。天平勝宝年間初頭は、粟凡直氏出自の板野命婦(粟凡直若子)が紫微中台と造東大寺司との連絡女官として活動していた時期でもあり(天平勝宝三年六月八日「造東大寺次官佐伯今毛人薬師経奉請文」正倉院文書)、当庄の設定およびその内部の開発・整備の推進には粟凡直氏が強くかかわっていたとみてよい。

当庄の三地区の位置については、山山麓から平野中央の低湿地にかけての名方郡条里の把握をめぐって異なった二説(服部昌之説・福家清司説)が出されており、それに対応して三地区の比定地が異なってくる。しかしどちらの説をとるにせよ、三地区とも条里の最先端部分、現在の吉野川本流にごく近い低湿地最深部に設定されているという位置づけについては変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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