方臘の乱(読み)ほうろうのらん

改訂新版 世界大百科事典 「方臘の乱」の意味・わかりやすい解説

方臘の乱 (ほうろうのらん)

中国,北宋末期に浙江地方に起こった反乱。方臘は睦州青渓県(浙江省)の漆園経営者であったといわれるが,方家の雇用人という説もある。当時,徽宗遊興に供するため,宰相蔡京は蘇州の富民朱勔(しゆめん)父子に命じて江南から奇石珍木を徴発して都に運ばせ,この地方の人民を苦しめた。これを花石綱という。1120年(宣和2)10月,方臘は〈朱勔を殺せ〉をスローガンにして蜂起し,みずから聖公と号し,年号を永楽と定めた。たちまち6州52県を占領,参加の民衆は100万に達した。朝廷はあわてて花石綱を中止し,宦官童貫の率いる大軍を派遣して,翌年4月ついに方臘を捕らえ処刑した。しかし余党はなお抵抗をつづけ,完全に鎮圧されたのは22年3月である。方臘はマニ教徒で,その組織を利用した宗教反乱との説も有力だが,確証はない。《水滸伝》では,主人公の宋江が方臘討伐に加わりてがらをたてたことになっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「方臘の乱」の意味・わかりやすい解説

方臘の乱
ほうろうのらん

中国、北宋(ほくそう)末期、浙江(せっこう)省に起こった農民反乱。方臘は睦(ぼく)州青渓(浙江省建徳県)で漆園を営む中地主で、宗教的秘密結社「喫菜事魔(きっさいじま)」(マニ教系とする説もある)の指導者でもあった。宰相蔡京(さいけい)の政権下、花石綱(かせきこう)(珍木奇石の徴発・運搬)など過酷な収奪が行われ、方臘はその推進者朱勔(しゅめん)を誅することを名目として1120年決起し、自ら聖公と称し永楽と改元した。翌年8月、童貫(どうかん)の率いる官軍に捕らえられ殺されたが、この間経済先進地である浙江地方の約100万の民衆が反乱に加わった。鎮定後、花石綱の撤廃租税減免が行われたが、この混乱によって北方の新興勢力、金に対する防備が弱められ、北宋はわずか4年後に滅亡することとなる。

[島居一康]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「方臘の乱」の解説

方臘の乱(ほうろうのらん)
Fangla

北宋晩期の1120~21年に起こった農民反乱。徽宗(きそう)らが使う宮廷費が膨張し,徴発が特産品豊かな江蘇,浙江(せっこう)に集中したため,方臘ら農民が,対挟撃を策す政治空白に乗じて起こした反乱。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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