日原村
にちはらむら
[現在地名]日原町日原
高津川中流の右岸にある。津和野川は当地で吉賀川に合流して高津川となる。津和野奥筋往還は枕瀬から川を渡って上日原を横断し、一ノ峠を越え、須川・相撲ヶ原を経て美濃郡に入る。水陸交通の要衝であった。当村は銀銅が産出したため、幕府直轄領として大森代官所(現大田市)の支配を受けていた。ただし天明五年(一七八五)から寛政四年(一七九二)までは浜田藩領。同じ代官所支配の鉱山のある笹ヶ谷・十王堂・中木屋・畑ヶ迫四ヵ村(現津和野町)と合せて五ヶ所村または間歩口村と総称されることもある。寛永一四年(一六三七)の高九二石余(「検地帳」日原町史)。元禄一〇年(一六九七)には田方四五石余・畑方四六石余、家数四七(本家四〇・門屋七)・人数二八二、牛四一・馬三、寺二(本光寺・丸立寺)、鉄砲四(石見銀山領村々覚)。天明五年の家数六〇・人数五四五。慶応二年(一八六六)の家数一四四(日原町史)。銀銅山は山方(山分)と称し、地方とは区別されていた。
当地の銅山は朱色山という。初めて朱色山に露顕の鉱脈が発見されたのは慶長(一五九六―一六一五)以前で、その後は断続的に採掘された。朱色山から金山平の間に次々に開かれた間歩のうち名前の確かめられるものは、山神坑・元山坑・朱色坑・大盛坑などである。この山からの産出量の増減によって村は盛衰を繰返した。
日原村
につぱらむら
[現在地名]奥多摩町日原
氷川村の北、日原川流域の山間の村で、西境に雲取山がそびえる。小名小菅にある伽藍明神社所蔵の文安二年(一四四五)七月の鰐口銘に「武州杣保野上郷小菅村」とあり、小名倉沢の鎮守であった大神宮蔵の同年一二月一〇日の鰐口銘には「武州杣保野上郷倉沢村神冥宮」とみえる。小名大沢の薬師堂の文明一四年(一四八二)九月の鰐口銘には「武州杣保大沢村薬師堂」とあり、同薬師堂境内に同年九月一二日の紀年銘がある無縫塔(供養塔)がある。永禄五年(一五六二)四月一四日の北条氏照朱印状(斎藤家文書)によると、北条氏照は「いつ原之内」のすはい鷹(鷹狩用に珍重したハイタカの雛鳥)を、必ず差出すように「いつ原」の原島右京亮に命じている。
日原村
ひばらむら
[現在地名]美山町片原
大黒山の北方、神崎川中流に位置し、東は片狩村、北は円原村で、典型的な山村。天正一七年(一五八九)の検地帳(土岐文書)によれば、ひん原村一一石余とあり、谷合村・片狩村との合計二五九石余。正保郷帳では谷合村の下に「片狩 日原 円原」と記される。初め幕府領で、元文二年(一七三七)岩村藩領となる。享保二〇年(一七三五)の高反別差出帳(江崎文書)によれば高一一石余、田はなく畑のみ一町三反余。家数三七(うち本百姓二六・水呑一一)、人数男九一・女八二、医師・桶屋・杣各一、商人五。
日原村
ひばらむら
[現在地名]米子市日原
宗像村の南、北流する加茂川両岸および法勝寺川西岸の平地に位置する。集落は主として中尾山の北と西の麓にあり、一部は東麓にもあったが近世後期に加茂川を越えた東の丘陵下に移った。元和四年(一六一八)の検地帳(成実公民館蔵)によれば田三〇町一反余・畑二町三反余。拝領高は四一八石余、本免五ツ七分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四四九石余、竈数三六。「伯耆志」の家数三五・人数一三五。山林三七町三反余を有し、農間余業として薪材を米子城下に供給。藪役銀二五匁を課されていた(藩史)。災害による損耗も多く、天保郷帳では四三三石余と村高が減じている。
日原村
ひわらむら
[現在地名]海津町日原
立野村の南東、長良川右岸にあり、南西は長久保村。天正一二年(一五八四)と推定される一一月七日の織田信雄折紙(吉村文書)に「日原」とあり、当時松木城にあったとみられる吉村氏吉に対し、日原まで援軍を送るので同城を油断なく固めよと伝えている。慶長郷帳に村名がみえ、高九〇〇石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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