日坂宿(読み)につさかしゆく

日本歴史地名大系 「日坂宿」の解説

日坂宿
につさかしゆく

[現在地名]掛川市日坂

東海道五十三次の江戸から二五番目の宿場。南西はみや村・鴨方かもかた村。古宮ふるみや(逆川)が宿内を貫流する。日坂は小夜中山さよのなかやまの西麓にあたるため東坂に対しての西坂の意とされ(掛川誌稿)、新坂・日阪とも記される。二四番目の金谷かなや宿(現金谷町)へ一里二四町、二六番目の掛川宿へ一里二九町(宿村大概帳)往還筋にほん町・しも町・古宮町の三町があり、本町の東はかつて上町と称されていたが、「掛川誌稿」は旧上町に人家はないと記している。小夜中山からの往還は本町に入り、下町から古宮川に架かる橋(古宮橋・こぜ橋という)を渡って古宮町に入る。本町から下町にかけての往還北側に脇本陣・本陣・問屋場、古宮橋東詰北側に高札場がある(以上、分間延絵図)

〔中世〕

「経覚私要鈔」応仁二年(一四六八)条の末尾に載る京都から鎌倉までの宿次第によると、懸河かけがわ菊川きくがわ(現金谷町)の間に「西坂にしさか」とみえる。文明一二年(一四八〇)六月、上洛途中の太田道灌は「日坂といふ山中」で和歌を詠んでいる(平安紀行)。明応八年(一四九九)六月八日には飛鳥井雅康(富士歴覧記)、大永六年(一五二六)二月二一日には柴屋軒宗長が当地を通過している(宗長日記)。天文一三年(一五四四)一二月、東国へ向かう連歌師宗牧は「日坂とかいふ茶屋」で休憩をとっており(東国紀行)、大村家盛が記した参詣道中日記(大村家文書)の同二三年三月二六日条には「かけ川よりふしゑたの間ニにつさかとて宿有」とみえ、すでに宿となっていたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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