日本歴史地名大系 「日明村」の解説 日明村ひあかりむら 愛知県:豊田市松平地区日明村[現在地名]豊田市坂上(さかうえ)町 日明巴(ともえ)川の支流仁王(におう)川の最上流部に位置する。下河内(しもごうち)から東宮口(ひがしみやくち)を通って足助(あすけ)(現東加茂郡足助町)に至る外下山(としもやま)街道と日明から真っすぐ南下して花沢(はなざわ)(現東加茂郡下山村)に至る大田和(おおたわ)道が通じる。現東加茂郡との郡境でもある。天正一八年(一五九〇)宮部善祥坊継潤によって検地が行われたことが、万治三年(一六六〇)の日明・宮口山論文書である六所山論返答書(日明区有)中に「ぜぢやう法印様御検地之帳」とみえることからわかる。善祥坊検地は、市域では九久平(くぎゆうだいら)村で「天正十八年の検地帳用イ来候」(九久平村誌)とあるのみである。 日明村ひありむら 静岡県:天竜市日明村[現在地名]天竜市日明米沢(みなざわ)村の東、天竜川中流域左岸に位置する。元和一〇年(一六二四)当時「ひやり」と称している(千村文書)。領主の変遷は横川(よこかわ)村に同じ。慶長一六年(一六一一)の阿多古領年貢取帳(中村家文書)に日明村とみえ、永高三貫一二六文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)によれば永高三貫一二六文、うち大明神(現諏訪神社)領三〇〇文、川成三八〇文を差引いた年貢を鐚銭で納めている。元禄郷帳では高四二石余。当村と天竜川を挟んだ対岸船明(ふなぎら)村に白口藤製の綱を張り(ダムを造り)信州から川下げされた榑木を止め、船明村榑山に棚積した。この綱は当村を含む奥山(おくやま)・西手(にしで)・阿多古(あたご)三領諸村が榑木御綱役として納めた。 日明村ひあけむら 大分県:杵築市日明村[現在地名]杵築市日野(ひの)北は幕府領末守(すえもり)村、南は幕府領野田(のだ)村。丘陵地帯にあり、小倉藩元和人畜改帳の本田(ほんだ)村にあたると考えられ、高一四八石余、家数七・人数三二(うち百姓六・名子五)、牛一〇。村名の由来は東方に新庄(しんじよう)平野をもつので、太陽が朝早くから照るからといい、また灌漑不便であるからともいう。寛文二年(一六六二)の地撫帳(中村家文書)によれば、名請人五六人、田方九町一反余・高一一七石余、畑方一〇町八反余・高六二石余で、庄屋は片野村庄屋の兼帯とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by